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元は、簸上鉄道(現在の西日本旅客鉄道木次線の一部)が1923年(大正12年)に日本車輌製造で2両(製造番号102, 103。5形(5, 6))を製造した、飽和式の2気筒単式の小型機関車で、1934年(昭和9年)に簸上鉄道が国有化されたのにともない、鉄道省籍となったものである。車軸配置0-6-0(C)のサイド・ウェルタンク・30t級機関車である。
原設計は、1895年(明治28年)・1901年(明治34年)英国ダブス製の1480形で、これを鉄道院から払い下げを受けた八幡製鉄所が1921年(大正10年)に同仕様で日車に3両を増加発注したのを契機に、動輪径の若干異なる同形機を製造して、各地の私鉄に売り込んだ。その一つが本形式である。
国有化後は、1260形(1260, 1261)に改番の上、鷹取工場の入換用に使用されたが、1943年(昭和18年)に両機とも大江山ニッケル鉱業に譲渡された。大江山ニッケル鉱業は同年、日本冶金工業に合併され、その傘下にあった加悦鉄道に車籍編入された。1260は、加悦鉄道の終点加悦駅と大江山鉱山を結ぶ専用線で使用されたが、1947年(昭和22年)に昭和電工魚津工場に譲渡された。一方の1261は、1947年4月に日本ニッケル鉄道(後の上武鉄道(2代))に貸し出され、1949年(昭和24年)3月に返却された。その後は加悦鉄道で使用され、廃車後は加悦SL広場で静態保存されていたが、2022年3月に移転された。
本形式の同形機は、最初となった八幡製鉄所の3両を皮切りに10両が1926年までに製造されている。その状況は次のとおりである。
越後鉄道(現在の東日本旅客鉄道越後線、弥彦線)へは、1922年製の2両が入り、16, 17と付番された。1927年(昭和2年)の越後鉄道国有化にともなって、1740形(1740, 1741)と改番された。この機関車の動輪径は1,067mmであったが、簸上鉄道のものに比べて側水槽が大きく、原形となった1480形並みの容量があった。
ブレーキ装置は真空ブレーキと手ブレーキであったが、国有化後に真空ブレーキは空気ブレーキに改められた。越後線などで使用されたが、1937年(昭和12年)に1両が札幌鉄道局に移動し、1942年(昭和17年)に2両とも廃車となった。
陸奥鉄道(現在の東日本旅客鉄道五能線の一部)へは、1924年製の1両が入り、B形(5)と称した。1927年の陸奥鉄道国有化にともなって、1750形(1750)に改番された。この機関車の動輪径は1,118mmで、その分高さ関係の寸法が大きくなっている。ブレーキ装置は蒸気ブレーキと手ブレーキであったが、国有化後に蒸気ブレーキは空気ブレーキに改められた。
国有化後も仙台鉄道局管内にあって、郡山、弘前、盛岡等で使用されたが、1949年(昭和24年)に廃車解体された。
茨城鉄道(後の茨城交通茨城線)へは、1926年製の2両が開業用として用意され、1, 2と付番された。茨城交通成立後は、合併した旧・湊鉄道の機関車と番号の重複が生じたため、茨城線用の機関車を11から付番することとし、1948年(昭和23年)6月に11, 12と改番した。
その後、11は1958年(昭和33年)5月11日、12は1962年(昭和37年)5月10日付けで廃車され、いずれも解体された。
1260形の諸元を示す。
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