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鎌倉時代前期から中期にかけての御家人 ウィキペディアから
和田常盛の嫡男として誕生。『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府2代将軍・源頼家、3代将軍・源実朝に近習として仕え、頼家・実朝の寵臣であったといわれる。
建保元年(1213年)、北条氏に対して和田氏の一族が挙兵した和田合戦において、実朝と父祖との板ばさみになり、出家し実阿弥陀仏、高円坊と名乗り、京へ向かった。しかし弓の名手であったため、その武勇が必要だった祖父・義盛は四男・義直(朝盛の叔父)を遣わし、その中途の駿河国から連れ戻させられた。この和田合戦では一族と共に戦い敗れるが、運よく朝盛は生き延びた。
承久3年(1221年)の承久の乱の際には後鳥羽上皇方につき、幕府側についた嫡男・佐久間家盛と敵味方に分かれて参戦した。乱後は逃亡していたが、嘉禄3年(1227年)6月に捕縛された。
その後の動向ははっきりしないが、三浦半島の三浦市初声(はつせ)町の高円坊に墓(朝盛塚)があり、その地名も朝盛の法名から取ったものと伝えられている。
また、江戸時代の『寛政重修諸家譜』の佐久間氏(三浦氏一族)の項の記述によれば、同族の佐久間家村の養子となり、又従弟の高井時茂(大叔父の義茂の孫)が地頭をつとめている越後国奥山荘(現在の新潟県胎内市)に逃れ、その後尾張国御器所に移り住んだと記述されている。
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