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族兄の呉懿(呉壹)は劉焉に随行して益州に入り[1]、後に蜀漢の重臣に上った。呉班は豪侠[2]で知られ、常に呉懿に次ぐ官位にあったとされるが、呉懿と異なり劉備に仕えるまでの前半生は定かではない。劉備の時代に領軍となった。
章武元年(221年)から翌年(222年)にかけ、蜀漢の呉侵攻に従軍。その諸戦では馮習と共に、李異らの敵軍を撃ち破った[3]。また劉備の命で囮として敵を挑発する役目も担ったが、これは陸遜に看破され、失敗に終わっている[4](夷陵の戦い)。
建興9年(231年)、諸葛亮の第4次北伐に従軍。司馬懿が諸葛亮に攻撃をかけてきた際に魏延・高翔らと共に出撃して司馬懿らを大いに撃退し、多くの首級や戦利品を獲得する戦果を挙げた[5](祁山の戦い)。また同年、食糧輸送に失敗した李厳が免職となるが、この際に諸葛亮が出した弾劾状に呉班は督後部・後将軍・安楽亭侯として名を連ねている[6]。
羅貫中の小説『三国志演義』では、第65回で初めて名前が登場。劉備の益州制圧完了を受け、荊州以来の旧臣として他の将と共に昇進し、恩賞を受けている。
張飛の死後、彼の配下だった部将として再登場[7]。劉備に使者を送って張飛が暗殺されたことを報告した後、自身も劉備の下に参陣して、夷陵の戦いに臨む軍勢に加わる。蜀の先陣を務め、進軍するごとに敵を降伏させる、孫桓や朱然を敗走させるなど活躍するが、やはり史実通りに蜀軍は敗戦。呉班も危機に陥ったが、趙雲の救援で白帝城まで逃れた(第81-84回)。
その後も正史以上に出番は多く、たびたび諸葛亮の北伐に従軍し、その指示に従う。攻め寄せてきた張虎・楽綝の軍を伏兵として撃退する(第98回)、前衛を務め張郃・戴陵の軍を誘き寄せる(第99回)、捕虜となった魏兵の装備を用い変装して曹真の軍を破る(第100回)などの活躍を見せる。しかし第5次北伐で筏部隊を率い、浮橋の焼き討ちに当たった際、伏兵の張虎・楽綝軍に矢を射かけられ、戦死を遂げた(第102回)。
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