古川寛和
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来歴
1986年3月1日の中山第2競走4歳未勝利・ハクテンバ(12頭中8着)で初騎乗[1]を果たし、同15日の中山第2競走4歳未勝利でもホウヨウボーイ産駒の同馬[2]に騎乗し2着に9馬身付け、枠連万馬券[3]での初勝利[1]を挙げる[4]。12月20日・21日の中山では初の2日連続勝利[5]を挙げ、1年目の同年は6勝[6]をマーク。
3年目の1988年には初の2桁となる13勝[6]をマークし、1989年には8月5日の新潟で1日2勝[7]を挙げ、1991年まで4年連続2桁勝利[6]を記録。
1990年には京成杯で1番人気のクロスキャストに騎乗して逃げたものの4着[8]に終わったが、1991年11月17日の東京第7競走4歳以上500万下ではマルゼンスキー産駒でホウヨウボーイの半弟のゴルギアスで逃げ切った[9]。
1992年には9月6日の新潟第6競走4歳未勝利で16頭中13番人気のクレストボーイに騎乗し、7番人気で逃げ切ったフジノアウトバーンの2着に粘って馬連万馬券を演出[10]。11月8日の東京第3競走3歳新馬では翌年のオークス5着馬でシービークロス産駒グランドクロスで勝利し[11]、2桁には届かなかったが8勝[6]をマーク。
1993年には福島戦7勝、新潟戦5勝、小倉戦2勝とローカルのみの勝ち星[12]で2年ぶりの2桁勝利となる14勝[6]をマークしたが、1994年には初めて0勝[6]に終わる。
1995年5月20日の東京第7競走4歳500万下・マイネルアイオロスで通算100勝[13]を達成し、1996年には3年ぶり最後の2桁勝利で自己最多の19勝[6]をマーク。
1999年には第1回新潟ジャンプステークス・リマインドシルクで6年ぶりの重賞騎乗[14]を果たし、10着に終わったが、後に2年連続でJRA賞最優秀障害馬に選出されるゴーカイに先着した[15]。9月12日の中山第7競走3歳新馬では15頭中12番人気のホワイトパワーで14番人気ワカセイウンのクビ差2着に入って枠連5万・馬連6万馬券[16]の波乱を起こすが、5年ぶり2度目の1年0勝[6]に終わる。
2001年にはNHKマイルカップ・スマッシュキング(18頭中11着)で自身唯一のGI騎乗[14]を果たしたが、2002年には3年ぶり3度目の0勝[6]に終わる。
最後の騎乗となった2004年2月28日の中山第5競走障害4歳以上未勝利・アルファダンジグを勝利で飾り[17]、翌29日付で現役を引退[4]。
騎手成績
脚注
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