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日本の元バレーボール選手、指導者 ウィキペディアから
大阪府大阪市出身。大阪商業大学附属高等学校、大阪商業大学を卒業し、1990年に日新製鋼入社。日新製鋼男子バレー部では高校の先輩でもある柳本晶一が監督を務めており、柳本の下で鍛え上げられた[1]。
1986年の第3回アジアジュニアバレーボール選手権(タイ)、1987年の第4回バレーボール男子ジュニア世界選手権(バーレーン)、1991年の第16回ユニバーシアード大会(イギリス)にそれぞれ日本代表に選出されて出場している[2]。また日本男子代表として1995年バレーボール・ワールドリーグに出場した[2]。
1997年に日新製鋼ドルフィンズが解散したため、松下電器・パナソニックパンサーズへ移籍。2001年のシーズンまで現役としてプレーした後、バレーボール指導者へ転身して2002年からパンサーズのコーチやマネージャーを務めた[3]。
プレミアリーグ 2007/08シーズンからパンサーズ監督に就任。就任1年目の新人監督としてプレミアリーグ優勝を果たし、同年には第57回黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会も制覇[1]、その翌年のプレミアリーグ2008/09シーズンも連覇し、同年のアジアクラブ男子選手権(中国・鎮江市)で3位に入った。2012年にはプレミアリーグ2011/12、第61回黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会、平成24年度天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会の三冠制覇を果たしている。
2014年2月6日、ゲーリー・サトウの後を受けてバレーボール日本男子代表監督に就任することとなった[2][3]。プレミア監督としての実績、ブラジルバレーの知識、飽くなき向上心などが評価されての抜擢だった[4]。尚、プレミアリーグ 2013/14シーズン及び2014年黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会が終了するまではパンサーズの指揮を執り、2014年5月から代表監督に専念することとなった[5]。
2016年10月、続投を視野に中垣内祐一と荻野正二と共に日本バレーボール協会の面接を受けたが[6][7][8]、バレーボール日本男子代表監督を退任(後任は中垣内が選出された)[9]。
2023年現在は日本バレーボール協会男子強化委員会委員長を務める[10]。
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