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日本人女性初のアメリカで飛行機操縦免許の練習をした ウィキペディアから
南地 よね(なんじ よね、1890年(明治23年)11月24日 - 1980年(昭和55年)11月3日)は、日本の女性飛行家・教育者。結婚後の姓名は佐村 よね(さむら よね)。
1912年にロサンゼルスのドミンゲス飛行場にあるカーティス飛行学校で飛行訓練を受け、1912年9月には日本女性として初飛行をおこなった。このことから「日本人初の女性飛行家」と紹介されることもあるが[1]、操縦士としてのライセンス取得は果たせなかった。その後、日本に帰国して山口県で洋裁学校を開いた。
和歌山県出身[1]。父南地福松・母あきの長女として出生[2]。串本尋常小学校(現在の串本町立串本小学校)を卒業[1]。16歳で家族に呼び寄せられて米国に渡った[1]。ロサンゼルスで縫製学校に学び[1]、卒業後は同市で洋裁業を営んだ[2]。
ドミンゲス飛行場で行われた航空大会[3]を見て航空に興味を持ち、1912年にカーチス飛行学校[4]に入学[注釈 1]、数ヶ月前に同校に入学していた佐村福槌[注釈 2]の指導を受け[4]、9月頃には飛行練習を行った[1]。東洋人女性の飛行家は珍しい存在であり、現地の新聞でも報じられるなど注目を集めた[1]。1913年(大正2年)4月13日に飛行学校を卒業、万国飛行免状を取得する技倆に達してはいたが、機を逸してついに免状は取れなかった[6]。
飛行免状を得たと日本で誤って報じられたこともある[7]。日本女性で最初に航空免許を得た兵頭精が飛行したのは1921年頃であるので、それよりも9年ほど早く飛行をおこなったことになるが、航空免許を得るにはいたらなかった。
佐村福槌は1913年3月にアメリカの万国操縦士免状第225号を取得してカーティス飛行学校を卒業、ロサンジェルス市ハリウッドパークにみずからの飛行学校を開校するが[4]、よねも行動をともにした。1914年9月14日、よねと福槌は結婚し、福槌はほどなく航空界から引退[5]。よねも長男の懐妊を機に洋裁業に専念した[6]。
1923年、夫婦で帰国[1]。福槌は山口県柳井市出身であり、下関市に関門高等洋裁学院を創立[1]。この学校は日本の公認洋裁学校の草分けで[1]、現在の貴船連合町民館(下関市貴船町)の敷地にあった[8]。以後よねは学校長に就任して女子教育に尽力する[6]。
洋裁業の傍ら、夫ともに下関航空協会を設立[7]、グライダー競技大会を主催した[7]。また、1967年からは日本婦人航空協会理事を務めた[7]。
1980年(昭和55年)11月3日、よねは入院先の東京都渋谷区の病院にて満90歳で死去した[6]。夫の福槌はその前年、1979年9月5日に100歳で病没している[6]。
1953年、長府功山寺に「航空界・洋装界功労者佐村福槌君夫妻乃碑」が同窓生や航空関係者ならびに有志によって建立された[5]。徳富蘇峰が寄せた碑文を裏面に見ることができる[5]。
1967年、よねは洋裁教育に貢献したことにより勲五等宝冠章[1]。福槌は1973年、民間航空に尽くしたことにたいして運輸大臣表彰功労賞を受けた[5]。
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