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十三号型巡洋戦艦(じゅうさんごうがたじゅんようせんかん)、あるいは第八号型巡洋戦艦(だいはちごうがたじゅんようせんかん)は、大日本帝国海軍が八八艦隊計画で計画した最後の艦型である。第十三号艦から第十六号艦の4隻の建造が計画されていたが、ワシントン海軍軍縮条約で全艦が起工前に建造取りやめとなった[3]。本型は超紀伊型戦艦ともいうべき艦型であり[4]、石橋孝夫は五〇口径46センチ砲 連装砲塔四基を搭載予定だったとする[5]。
日本海軍は第一次世界大戦勃発直前の1914年(大正3年)6月に、16インチ砲(40センチ砲)の試作を命じた[7]。同年12月には、18インチ砲(46センチ砲)製造の研究準備をはじめた[8]。
第一次世界大戦のユトランド沖海戦において、イギリス型の巡洋戦艦は防御が脆弱であること、従来の戦艦は劣速のため役に立たないことが判明し、新世代の主力艦は「巡洋艦の速力、戦艦の火力と防御力」を備えた高速戦艦であることが明白になった[9][10]。ユトランド海戦後の巡洋戦艦は、従来の戦艦の要素を取り込んで高速戦艦に進化した[11]。 イギリス海軍は戦訓を取り入れた新型主力艦を計画し[12]、N3型戦艦(18インチ45口径砲三連装砲塔3基 9門、排水量約48,000トン、速力約24ノット)とG3型巡洋戦艦(16インチ45口径砲三連装3基 9門、排水量約48,000トン、速力約32ノット)を建造することにした。N3型戦艦は18インチ砲(46cm砲)を搭載しており、G3型巡洋戦艦の実態は高速戦艦であった[13]。 アメリカ海軍もダニエルズ・プランにおいて、レキシントン級巡洋戦艦とサウスダコタ級戦艦を建造する。さらに18インチ(46cm砲)三連装砲塔5基 15門を搭載した排水量80,000トン規模の巨大戦艦も検討していた[14]。
日本海軍において、ユトランド沖海戦の戦訓を完全に取り入れた新世代主力艦は加賀型戦艦であった[15]。つづいて天城型巡洋戦艦と紀伊型戦艦の建造や設計にとりかかる[16]。同時に諸外国の動向をにらみ、レキシントン級(速力33ノット、50口径16インチ砲連装砲塔四基 8門)に速力で匹敵し、サウスダコタ級(速力23ノット、50口径16インチ砲三連装砲塔四基 12門)に砲力で勝る高速戦艦の建造を要望した[3]。これに応えたのが第十三号型巡洋戦艦である[17]。 八八艦隊は、巡洋戦艦と戦艦を統合した天城型と準同型艦の紀伊型で、一つの完成形となった[18]。だが紀伊型戦艦の時点で、連装砲塔多数か、三連装砲塔にすべきか、四連装砲塔にすべきか、試行錯誤を繰り返していた[16][19]。同計画最後の4隻、13号~16号艦は、紀伊型戦艦で断念された兵装強化のため、50口径41センチ3連装四基または4連装砲塔を搭載する案、46センチ連装砲塔四基を搭載する案などが用兵・造船関係者の間で検討されたが[17]、軍縮条約による建造中止までに艦型は決定することなく終わったという[20]。
諸外国は、日本海軍の紀伊型戦艦について16インチ砲(40センチ砲)12門または18インチ砲(46センチ砲)8門搭載と推定していた[註 2]。 また戦時中の軍事雑誌で日本海軍は大正10年(1921年)に46センチ砲8門を積んだ「48,000tの戦艦」と「46,000tの巡洋戦艦」を計画、建造に着手したがワシントン軍縮会議で廃案になったという解説がなされたほか[22] 、戦後になると46センチ連装砲塔4基8門を搭載、加賀型戦艦や紀伊型戦艦を上回る厚さの防御装甲を持ちつつ常備排水量47,000トンで30ノットを発揮する、「十三号型巡洋戦艦」として計画されていたと喧伝されるようになった[20](#要目を参照)。330mmの装甲は後の大和型戦艦に比べるとかなり見劣りがするが、計画当時の砲弾性能においては、46センチ砲弾に耐えうるとされた。
近年になり平賀譲が残した資料(平賀アーカイブ)が公開され、従来の定説に疑問符がつくようになった[23]。五〇口径46センチ砲の図面が発見され、日本海軍が八八艦隊の時点で46センチ砲の基本計画を終えていたことが明確になった[5]。 以下のような仮説が提唱されている。
1920年(大正9年)招集の第43回帝国議会で八八艦隊案の予算が成立、8月1日に公布された[26]。 その予算説明書で、巡洋戦艦4隻の「屯数」(排水量)は紀伊型と等しい41,000トンとされ、「金額」(1隻当たりの建造費)は37,424,800円で、「屯当たり単価」は紀伊型より約4円高い約913円とされた[1]。 いずれにせよ加賀型戦艦の加賀が1921年(大正10年)11月17日に[27]、同型の土佐が同年12月18日に進水した時点でワシントン軍縮会議の開催が控えており[28]、紀伊型戦艦や十三号型巡洋戦艦(超紀伊型)が完成する見込みはなくなっていた[29]。 実際にワシントン海軍軍縮条約の結果[2]、 製造手続き未済みのまま1923年(大正12年)11月19日に建造は取りやめられた[30]。
艦型については、1921年6月12日付の平賀譲の資料に「速やかに本艦型の決定を切望する」とあり[31]、 艦の試案作成も命ぜられていないことが推測されている[32]。 また、その資料では平賀の試案として艦型の概略が以下のように記載されている[33]。
福井らは以下のようなものであったと推測している[34][35]。
20世紀末から流行し始めた架空戦記の中には、日本が八八艦隊を実際に建造していたら…という設定で書かれた作品がいくつかある。十三号型については予定艦名が決まっていなかったため、作品ごとに違う名称で登場する。
また、『レッドサン ブラッククロス』(佐藤大輔)では加賀、土佐が戦艦として完成した代わりに十三号艦が建造中止の後、実弾射撃の標的となって沈められており、水中弾効果も本級の実験を元に得られたことになっている。作品中では史実と異なる歴史を歩み始めてから20年弱の時が過ぎており、国力伸張で史実と差がつき始めていることを表現するための小道具としての役割を担った。
双葉社で発行されていた『八八艦隊 幻の世界最強FLEETー超精密3D・CGシリーズ56』においては赤石、常念、穂高、乗鞍の名称が使われた。
ゲーム『戦艦少女R』では、十三号型を擬人化したキャラクターが登場している。艦名としては「十三号戦艦」だが、入手時のセリフでは「有明」と名乗っている。
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