勝田守一
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東京市に生まれる。ロシア研究者・横浜国立大学教授の勝田昌二(1911年生[要検証])は弟[1]。
1926年、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。(宗像誠也とは同級生)
京大卒業後、松本高等学校 (旧制)教諭、学習院大学教授などを経て、1951年から東京大学教授。日本教職員組合教研集会の講師を、その発足当初から長く務め、教育科学研究会(略称:教科研)の中心メンバーとして活躍、その機関誌『教育』の編集長の任にもあたった。また、通称の「もりかず」から、東京大学教育学部の同僚であった宮原誠一、宗像誠也と並んで、戦後教育学界に大きな影響を与えたことから「3M(スリー・エム)」と称された。
シェリングらドイツ観念論の研究からスタートし、その後、教育思想研究に転向した。カリキュラムは日常経験を媒介とした科学の再構成であるべきと主張、1950年代以降の教育論争に、教科研の立場から積極的に発言、教育社会学者の清水義弘(教育科学論争)、教育学者の梅根悟(コア・カリキュラム論争)らと活発な議論を交わす。それを通じて形成された教育思想は、子どもの全面的な発達の保証としての教育の定位、すなわち後の「国民の教育権」論へと結実する。「国民の教育権」論は、東大時代の門下堀尾輝久へと継承された。1969年病歿。
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