劔神社
福井県丹生郡越前町織田にある神社 ウィキペディアから
福井県丹生郡越前町織田にある神社 ウィキペディアから
劔神社(つるぎじんじゃ)は、福井県丹生郡越前町織田にある神社。式内社、越前国二宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。別名を「織田明神(おたみょうじん)」とも。
社伝によれば、御神体となっている剣は垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が作らせた神剣で、神功皇后摂政の時代に仲哀天皇皇子の忍熊王が譲り受け、忍熊王が高志国(越国)の賊徒討伐にあたり無事平定した。のち、伊部郷座ヶ岳に祀られていた素盞嗚尊の神霊を伊部臣が現在地に勧請し、この神剣を御霊代とし祀ったことに始まると伝えられる。忍熊王はその後もこの地を開拓したことから、開拓の祖神として父である仲哀天皇(気比大神)とともに配祀されたと伝える。
古くは社蔵の梵鐘(国宝)に「劔御子寺鐘 神護景雲四年九月十一日」の銘が見え、奈良時代の神護景雲4年(770年)当時にはすでに神宮寺があったことが知られる。
国史では、宝亀2年(771年)に従四位下勲六等の「劔神」に食封20戸・田2町を与えると見える。また天安3年(859年)には、「劔神」の神階を従四位上勲六等から正四位下勲六等に昇叙する旨が記載されている。
『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒では、当時の「劔御子神」には神戸として越前国から30戸が充てられており、そのうち10戸は天平神護元年(765年)、20戸は宝亀3年(772年)に定められたとする。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、越前国敦賀郡に「劔神社」と記載され、式内社に列している(ただし敦賀市莇生野の劔神社に比定する説もある)。
中世以降、この地の歴代の領主、斯波氏、朝倉氏、織田氏の崇敬を受け保護された。特に織田信長は当社の神官の子孫とされ[1][2]、織田家の氏神とされた[3]。柴田勝家の書状にも「殿様、御氏神、粗相仕るべからず」とある。尾張織田家はもともと越前織田荘出身で姓とし、主君の斯波氏の尾張守護任官で就いて尾張へ移ったので、数代前の越前守護斯波義将の被官の織田信昌、将広、父子も明徳4年(1393年)6月7日に「修理再興し、今後も課役を免除し、子々孫々修理を怠らない」と誓約しており、当社は織田氏と深い関係がある[4]。江戸時代には福井藩・大野藩両藩からの崇敬を受け、幕末には伏見宮家の祈願所ともされた。昭和3年に国幣小社に列格した。第二次大戦後は神社本庁の別表神社となった。
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