別宮大山祇神社
愛媛県今治市にある神社 ウィキペディアから
愛媛県今治市にある神社 ウィキペディアから
別宮大山祇神社(べっくおおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市にある神社。伊予国一宮の大山祇神社の別宮。旧社格は県社。新四国曼荼羅霊場40番札所。
今治市中心部、国道317号に面して鎮座する。本宮である瀬戸内海の大三島に鎮座する日本総鎮守・大山祇神社の別宮である。
往時には本宮と並ぶほどの威容を誇っていたと伝えられている[1]。戦国時代造営の拝殿は、愛媛県の有形文化財に指定されている。
天正の兵火による災禍以降は、四国八十八箇所の札所である当社の別当寺として南光坊が納経を担当し、その時の納経帳には「日本總鎮守 大山積大明神 別當南光坊」[2]と書かれていた。しかし、明治初年に神仏分離で南光坊と分かれ札所も移ったが、現在でも境内は隣接しており、当社と南光坊の両所参りは習わしである。
社伝によれば、大宝3年(703年)、越智玉澄[3]が文武天皇の勅命により大三島から祭神を越智郡日吉郷に勧請し、本宮である大山積神社の別宮(地御前)としたのに始まる。
和銅5年(712年)に社殿が完成した(これをもって創建とする説もある)。本宮は大宝元年(701年)に着工し社殿が完成し遷座の儀が行われたのは養老3年(719年)であるので、当社の方が早いともいえる。そして以後、本宮の社家・大祝家の分家の別宮氏が神職を勤めた。
正治年間(1199年-1200年)、本宮の24あった僧坊のうちの8坊が大三島から別宮に移され、別当寺・大積山光明寺の塔頭とされた。そして、弘仁年間(810年 - 824年)空海が巡錫のとき当社に参拝し坊で法楽をあげたとされることから、その後、四国八十八箇所が成立したとき88の札所の一つと定められ、納経は別当の光明寺でされていた。本式の遍路は海を渡って大三島の本宮にも参拝し別当の神宮寺でも納経することなので、その時の江戸時代の納経帳には「日本總鎮守 三島本宮 別當神宮寺」[4]と書かれていて、追加での参拝の形になるので札所番号は書かれていない。
天文20年(1551年)、落雷で社殿が炎上し、天正3年(1575年)に来島通総により再建された。僧坊8坊は天正年間(1573年-1592年)に長宗我部氏の軍勢により焼き払われ、後に南光坊のみが再建され当社の別当寺となり、当社に参拝し納経は南光坊でするようになった。
明治初年の神仏分離で当社の本殿に奉安されていた本地大通智勝如来および二脇士と十六王子と札所が南光坊へ移され、別当関係は解消された。また、本宮と同様に社名が別宮大山積神社から別宮大山祇神社に変更された。
昭和12年、社殿新築される。そのとき拝殿は他所に移され絵馬堂として使用された。
昭和20年(1945年)、今治市街地は米軍の空襲を受けて当社の本殿を残しほとんどが焼失したが、絵馬堂となり他所に移されていた元拝殿も焼失を免れた。そして、再建時、元拝殿を元の位置に戻し再び拝殿となる。
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