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1582年に岡山県玉野市で毛利氏と宇喜多氏の間で戦われた戦い ウィキペディアから
八浜合戦(はちはまかっせん)は、天正10年2月21日(1582年3月5日)に備前国児島郡八浜村(岡山県玉野市八浜)で戦われた戦い。八浜崩れ(はちはまくずれ)とも呼ばれる。
当時、中国地方最大勢力の毛利氏と、織田氏中国方面軍指令である羽柴秀吉の傘下に入っていた宇喜多氏との間で行われた合戦である。
天正9年(1581年)2月、当主であった宇喜多直家は53歳の時、岡山城にて病没。
天正10年(1582年)春、毛利氏は穂井田元清を総大将として常山城へ進軍し、児島郡を制圧しようと画策。
毛利勢進出の報せは児島から岡山へ注進される。宇喜多氏は宇喜多春家・基家父子を大将とし、戸川秀安、岡家利等を率いて八浜城に布陣し、常山城に対抗して麦飯山に砦を築こうとした。しかし、築城を察知した毛利勢は、麦飯山を占拠して八浜城と対峙し、小競り合いを続けた。
同年2月21日の早朝、宇喜多勢が麦飯山麓に馬草刈りのために数名の兵を繰出す。
これに対して、毛利勢は数人の兵を出し、馬草刈りをしていた宇喜多勢を追い払う。そこで宇喜多勢は更に数人が加勢、毛利勢も数名を繰出し応戦。
こうした両軍のやり取りで双方共に大勢となり、大崎村(玉野市八浜町大崎) 柳畑の浜辺で大合戦となった結果、大将の宇喜多基家が戦死した。
敗走した宇喜多勢は八浜七本槍の働きでかろうじて毛利勢をくい止めたが、以降は八浜城に籠城して、秀吉の救援を待つこととなったとされる。
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