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武蔵七党の一角を占める児玉党の祖、武蔵守 ウィキペディアから
児玉 惟行(こだま これゆき)は、平安時代後期の武蔵国児玉郡の豪族、武将。武蔵七党の一つにして最大勢力の集団を形成する事となる武士団、児玉党の党祖。有道惟能の子息。児玉氏系図では児玉遠岩の子息とあり、『武蔵七党系図』には藤原伊周の子息と記されているが、後世の創作と見られる(後述)。有道氏から児玉氏を称したとされ、実質的な児玉氏の祖である。
古代、児玉郡大寄郷若泉庄の阿久原(現・神川町の南部)には官営牧場があり、朝廷よりの派遣官人、つまり阿久原の別当(管理者)として惟行は赴任して来た。当時は、有道 遠峰 維行(ありみち こだま これゆき)と称した(後に児玉惟行と呼ばれる)。しかし、任務完了後も児玉郡にとどまり、そのまま在地豪族と化したと伝えられている(官営牧場と馬の管理は武士団の基盤となっていった)。そして武蔵国最大の武士団となる児玉党の党祖となった。
児玉氏系図には、父は児玉遠岩であると記されているが、伝承に差異があり、名の継承の観点からすれば、有道惟能→惟行の方が信憑性はある(従って、遠岩なる人物は実在しなかった可能性が高い)。
異伝とされる伝承では、惟能は藤原伊周の家司として仕えていたが、後に武蔵介となり、児玉郡を開墾して移住した。その子息である惟行も武蔵守となり、父の故地である児玉に定住し、児玉(遠峰)氏を称したと言う。さらに別の文献では、治暦・延久年間(1065 - 74年)に有貫主惟行なる人物が武蔵守を離任後も児玉に定住し、児玉氏を名乗ったとある。没年についても諸説あり、8月8日に69歳で没したと言う伝えもある。藤原伊周(定信?)公の次男である藤原伊行と同一視する(有道伊行であるとする)伝えもあるが、いずれも後世に創作された伝承と考えられる(後述のその他の方を参照)。
惟行の嫡男、児玉弘行(児玉党本宗家2代目、通称は大夫)が後三年の役(1083年 - 1087年)に参戦していたと言う伝えからも、惟行は平安時代後期の人物と考えられる。また、浅見山(本庄で言う大久保山)丘陵の南西端、現在の児玉町下浅見地区に西光寺(児玉氏の菩提寺)を建立し、阿弥陀如来を安置したとされる(庄氏の菩提寺である宥荘寺と同様に14世紀中頃の薊山合戦にて焼失したとされる)。
児玉党本宗家3代目児玉家行(惟行の孫)以後、本宗家は庄氏を名乗り、その本拠地を北上して栗崎の地(現在の本庄台地)に移す事となる。その直系の家督は庄小太郎頼家で絶える事となるが、児玉党本宗家は庄氏分家によって継がれていく事となり、本庄氏が児玉党本宗家となる。惟行の嫡流達は児玉郡内を流れる現・九郷用水流域に居住し、土着した地名を名字とし、児玉・塩谷・真下・今井・阿佐美・富田・四方田・久下塚・北堀・牧西などなど多くの支族に分かれていった。
児玉氏の嫡流は多くの氏族に分かれていったが、当然の事ながら、その後も(現在でも)児玉氏を称している一族は全て分家格に当たる(児玉氏の最も直系の嫡流は本庄氏である為)。
系図上の子息は、嫡男が児玉弘行、次男が児玉経行、三男が児玉貞行、四男が児玉惟親とされる(上述の様に、児玉氏の本宗家は、その後、庄氏を名乗る)。阿久原牧の経営は次男である経行が引き継ぎ、秩父平氏と結び付き、子孫は平児玉を名乗り、秩父郡や上野国甘楽郡の鏑川流域、群馬郡烏川・井野川流域に移住したと伝えられる。
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