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常陸国に存在した郡 ウィキペディアから
伊佐郡(いさのこおり・いさぐん)は、かつて常陸国(現在の茨城県)に存在した郡。常陸国の西部にあって下野国、下総国と境界を接していた新治郡が、細分化した結果成立した。ここでいう古代の新治郡は、2006年(平成18年)まで存続していた茨城県新治郡(にいはりぐん)とは呼称こそ同じであるが、その領域の異なる別のもの。
7世紀末~8世紀初頭に成立した常陸国の郡[1]や郷は、律令制の動揺とともに在地の豪族など諸勢力による細分化、再編成が進んだ。新治郡からはまず、小栗御厨が伊勢神宮領として分出。残った領域が東郡、中郡、西郡の三郡に分かれ、このうち西郡が更に北条、南条に二分された。この西郡北条が伊佐郡、南条が関郡である。
伊佐郡を名字の地としていた一族に伊佐氏がある。1189年(文治5年)の源頼朝による奥州合戦では、常陸入道念西の長子伊佐為宗(常陸冠者為宗)が信夫佐藤庄司(佐藤基治)を討ち取る戦功をあげ、奥州伊達郡を拝領した。為宗は本領の伊佐郡にとどまったが、念西と一族の者が伊達郡へと下り、後の仙台藩伊達氏の始祖となった。鎌倉幕府の公式記録ともいえる『吾妻鏡』では、1240年(仁治元年)の伊佐右衛門慰以降、伊佐氏に関する記述は見られない。しかし南北朝時代に常陸国が戦場となると、伊佐氏[2]は伊佐城を拠点に、同族の伊達行宗(伊達行朝)とともに南朝方として戦っている。伊佐城は、1343年(興国4年・康永2年)に落城。伊佐氏は没落し、伊達氏も常陸における拠点を失う。
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