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日本の政治家 ウィキペディアから
仲川 元庸(なかがわ もとのぶ、1976年〈昭和51年〉3月6日[1] - )は、日本の政治家。奈良県奈良市長(公選第18・19・20・21代)。中核市市長会副会長。
奈良市長選挙への立候補に際しては仲川 げんの通称名を用いており、奈良市長就任後も通称名を使用する方針を表明している。
奈良県立北大和高等学校(現:奈良県立奈良北高等学校)、立命館大学経済学部卒業。大学卒業後は帝国石油に入社した。その後、2002年から奈良NPOセンターで行政の目が届かない教育や地域の問題を草の根から改善するため、奈良県内のNPO法人に対する支援活動に従事する。また東大寺アートプロジェクトやLove Letter Project等、アートイベントの企画・運営のほか、体験型観光プログラムや奈良まほろばソムリエ検定の開発等、地域振興策に携わった。
2009年3月10日、奈良市長の藤原昭が奈良市議会本会議において、JR奈良駅前のホテル誘致計画の失敗に関する責任を取り、同年7月の奈良市長選挙に再選を目指して出馬しない意向を表明した[2]。民主党奈良県連代表の馬淵澄夫衆議院議員から要請を受け、民主党の推薦を得て奈良市長選挙への立候補を表明する。選挙戦では自身の陣営が作成した政策集「奈良マニフェスト」に基づき、3大ゼロ「行政のムダゼロ」「生活の不安ゼロ」「観光の渋滞ゼロ」を掲げ、大型公共事業の見直しや特別職の退職金廃止による財源確保、待機児童解消や病院のたらい回しが起きない地域医療体制の構築による教育、医療、生活分野の安定及び拡充、奈良市政の情報公開による市役所機能の向上等を公約した。当初は衆議院議員を辞職して出馬した元奈良市長の鍵田忠兵衛(自由民主党・公明党)に比べて知名度が劣っており、また仲川の政治経験の少なさを懸念する意見も存在したが、前月に千葉市(熊谷俊人市長)や横須賀市(吉田雄人市長)で相次いで30代前半の市長が誕生した「世代交代」の機運に乗って、7月12日投開票の奈良市長選で次点の鍵田に約1万4千票の差をつけ、2人の対立候補を破って初当選した[3][4]。当選時の年齢は33歳5ヶ月で、当時の現職の市長では三重県松阪市長の山中光茂(1976年1月15日生。現在は退任)を下回り、2009年6月に当選した千葉市長の熊谷俊人(1978年2月18日生。現在は退任し千葉県知事に就任)に次いで、2番目に若い市長であった。
2013年3月5日、奈良市議会本会議において、同年7月の奈良市長選挙に再選を目指して出馬する意向を表明[5]。7月21日投開票の奈良市長選挙には仲川のほか、元衆議院議員の森岡正宏(自由民主党推薦)や元奈良市議会議員の池田慎久ら、過去最多の7人が立候補した[6]。仲川は前回の市長選から一転して、特定の政党の推薦を受けずに立候補し、次点の森岡正宏に約1万7千票の差をつけて再選された[7]。
2014年5月20日より荒井正吾奈良県知事の奈良市後援会長を務める[8]。
2017年7月9日、任期満了に伴う奈良市長選に無所属で立候補し、元生駒市長の山下真(後の奈良県知事)、自民党が推薦する朝廣佳子らを抑え、3選を果たした[9]。
仲川や上司からのパワハラで精神的苦痛を受けて退職を余儀なくされたとして、元市職員の男性が400万円の損害賠償などを市に求め、2023年1月19日付で奈良地方裁判所に提訴した。
訴状によると、男性は秘書広報課で勤務していた2022年4月以降、仲川から床に書類を投げられたり、他の職員の前で叱責されたりしたほか、上司からも机を蹴られるなどしたとしている。男性は不眠などの症状が出たため人事課に異動を求めたが、「病休を取るか転職を」と返答され、同年秋ごろに自主退職したという[22]。
2024年3月8日に奈良地裁で和解が成立した。和解条項によると、市は上司の言動の一部に不適切なものがあったと認め、謝罪する内容。原告側は、市長からパワハラを受けたとする請求を放棄するとしている[23]。
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