仁壁神社
山口県山口市三の宮にある神社 ウィキペディアから
山口県山口市三の宮にある神社 ウィキペディアから
現在の祭神は次の通り[1]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳における祭神の記載は1座。当初の祭神については下照姫命とする説があるほか[2]、『仁壁神社鎮座考』では味鋤高彦根命を主神、下照姫命を相殿神として、住吉三神を合祀とする。
創建は不詳。社伝では、崇神天皇7年に各地の神社の神封戸を定めたときに、当社にも宮野庄を神封戸としてあてたとする。
元は宮野下村に鎮座していたが、現在地で一日中玉光が飛ぶ奇瑞があったとして、長治元年(1104年)に現在地に遷座したという。
国史では天安2年(858年)に「仁壁神」の神階が正六位上から従五位下に、貞観9年(867年)に「仁璧神」の神階が従四位下に昇叙された旨が記されている[2]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では周防国吉敷郡に「仁壁神社」と記載され、式内社に列している(吉敷郡では唯一)[2]。
その後、天慶2年(939年)・永保元年(1081年)・治承4年(1180年)・元暦4年(文治3年、1187年)に神階が昇叙され、正三位に達している[2]。
建久6年(1195年)の「周防宮野荘立券文」には「仁戸宮社」と見え、社領として6丁下品上生20歩・田3丁9段中品中生20歩・畠2丁上品下生と記されている[2]。
周防国においては古くから玉祖神社(一宮)・出雲神社(二宮)に次ぐ三宮に位置づけられ、明応6年(1494年)に九州の戦陣から帰った大内義興が周防国内5社に戦勝報告をした際にも3番目に参詣を受けている[2]。
永禄12年(1569年)に大内輝弘が山口に乱入(大内輝弘の乱)した際に焼失したが、毛利輝元により再建[2]。正徳2年(1712年)に再び社殿を焼失し、享保5年(1720年)に毛利吉元によって再建された[2][3]。
明治維新後、明治6年(1873年)に近代社格制度において県社に列している[1]。
平成9年(1997年)、火災(放火)により享保5年以来の社殿を焼失。平成12年(2000年)に本殿、平成13年(2001年)に拝殿・幣殿、平成22年(2010年)に神楽殿が再建されている[3]。
なお本殿が昭和52年(1977年)11月11日に山口県指定有形文化財に指定されていたが、平成9年(1997年)に焼失している。
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