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日本の蚕糸学者 ウィキペディアから
井上 柳梧(いのうえ りゅうご、1880年(明治13年)9月21日[1][注釈 1] - 1962年(昭和37年)3月6日[1])は、日本の蚕糸学者、政治家。上田蚕糸専門学校第2代校長、上田市長。農学博士[1]。
東京府本郷区駒込千駄木町(現東京都文京区)で[1]、官僚・井上廉の息子として生まれた[1]。1893年(明治26年)高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業[要出典]。1898年(明治31年)高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業[要出典]。官界を志していたが科学分野への興味がまさり[1] 東京帝国大学農科大学に進み農芸化学を専攻[1][2]。1908年(明治41年)7月に卒業[3]して大学院に進み[1][2]、1911年(明治44年)蚕糸研究のためフランス、ドイツ帝国に留学[1][2]。
1913年(大正2年)に帰国し[1]、同年6月、上田蚕糸専門学校の教授となる[1][2][3]。文部省視学委員、東京帝国大学農学部講師、長野県蚕業試験場長、農林省蚕糸試験場嘱託、九州帝国大学農学部嘱託などを兼任[1][3]。1938年(昭和13年)3月、上田蚕糸専門学校長に就任し[1][3]、1944年(昭和19年)に停年退職[1]。
地方政治家の多くが公職追放となっていたため有志の推薦で[1] 1947年(昭和22年)上田市長に当選し[1][2][3]、同年4月から1951年(昭和26年)4月まで1期務めた[1][3]。この間、学制改革による新制中学の設置、日本専売公社上田タバコ工場の誘致、上水道の拡張、上田警察署庁舎の新築、上田城の櫓復旧などに務め、戦後の復興に尽力した[2][3]。
市長退任直後、長野県短期大学学長となり1955年(昭和30年)まで在任[1][2][3]。その後、上田市に戻り、趣味の絵画や学生青年との山岳散策などを楽しんだ[1]。1962年3月6日死去。81歳。
1917年(大正6年)7月16日、「桑葉のアミノ酸についての研究」で農学博士[2][4]。繭の解飾の研究、繭セリシン定着法の研究などを進め、蚕糸化学の発展につくした[1]。
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