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日本のジャズベーシスト、プロデューサー (1942-) ウィキペディアから
中村照夫は、1964年からニューヨークで演奏を始めた。1969年には、ロイ・ヘインズのヒップ・アンサンブルに参加する。同じ年、スティーヴ・グロスマンと、レニー・ホワイトと共にトリオで仕事をした。2人は、中村のデビュー作でありリーダー作である1973年のアルバム『ユニコーン』に参加。このアルバムには他にもヒューバート・イーヴスIII世や、アルフォンス・ムゾーン、チャールズ・サリヴァン、ジョージ・ケイブルスら当時のニューヨークの俊英達が参加、その音楽性から後にロンドン発のレア・グルーヴ・シーンで人気アルバムともなり、現在の和ジャズ・シーンへの注目のきっかけともなった。その後、スタンリー・タレンタインのバンドに参加。1976年にグループを抜け、自らのグループ「ライジング・サン」を結成。1976年にリリースしたアルバム『ライジング・サン』、1977年にリリースしたアルバム『マンハッタン・スペシャル』作曲・アレンジは森士郎 shiro mori(日本国内でのタイトルは『ソング・オブ・ザ・バード』)は、『ビルボード』誌をはじめとする業界紙の全米ジャズ・チャートでトップ10に達した[1]。
その後も1980年代にはプロデューサーとして活躍、ニューヨークスタイルのラジオ番組Hip Pocketの制作も開始。1990年代以降はザ・ルーツ、P.M.ドーンらに楽曲がサンプリングされるなど、当時興隆をみせていたクラブシーンでの評価も高まる。
2009年12月より、ポニーキャニオンでチータ・レーベルをスタート。ボブ・ミンツァー、オナージェ・アラン・ガムス、スティーヴ・グロスマン、グルーヴ・コレクティヴのジェイ・ロドリゲスや、ビル・ウェアのアルバムをニューヨークで制作している。
2011年6月には、レーベルの12枚目となるアルバムとして新曲も収めた初のベスト・アルバム『ホワット・イズ?』をリリース。
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