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中村 昇(なかむら のぼる、1967年1月10日 - )は元オウム真理教幹部。山口県出身。ホーリーネームはウパーリで、教団内でのステージは師長だったが、地下鉄サリン事件3日前の尊師通達で正悟師に昇格した。教団が省庁制を採用した後は自治省次官だった[1]。
岐阜県内の定時制高等学校を卒業し、拓殖短期大学に進学するが、中退してオウム神仙の会に入信する[1]。新実智光や杉本繁郎と同様、出家制度設立直後に出家。出家番号は6番[2]。
1989年ごろには林郁夫とその家族の入信の世話をした。教団の出版物には「対人恐怖症で、修行を始める前は人とまったく話が出来ない状態だった」と紹介されている[3]。
1994年6月27日に発生した松本サリン事件ではサリン噴霧の際に実行現場の警備役を担当した。
1995年7月9日、逃走先の埼玉県大宮市(現さいたま市)のウィークリーマンションで端本悟とともに埼玉県警察に逮捕された。
2014年の平田信の裁判及び2015年の高橋克也の裁判に証人として出廷した。この時、既に自身にオウムへの信仰心がないことを証言。
サリンプラント建設事件、松本サリン事件、男性信者リンチ殺人事件、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件の4事件で殺人や逮捕監禁致死などの罪に問われ起訴された。
法廷においてもオウムへの帰依は変わらず、裁判中にマントラを唱えるなどした[4]。「修行者は裁判なんて気にしない。宗教的体験の方が大切」として証言を拒絶、男性信者リンチ殺人事件被害者への謝罪表明も「今の時点では気持ちを表現したくない」として拒否した[5]。
またかつてホーリーネームで「アーナンちゃん」「ウパちゃん」と呼び合った仲という井上嘉浩とも対立、公証役場事務長事件は井上らを中心とした弟子の暴走であると主張し、麻原を擁護した[4]。
裁判では検察側は死刑を求刑したが、2001年5月30日の第一審と2003年9月25日の控訴審で無期懲役判決が下された。高裁判決では「極刑と境界を接する無期懲役刑、言い換えれば終身刑、もしくは終身刑に近い無期懲役刑が相当」となっており、裁判所が終身刑に言及した判決として注目された。量刑不当などを理由に被告側が上告するも最高裁に棄却され、2006年9月4日に無期懲役が確定した[6]。オウム真理教事件の裁判で、死刑を求刑されながらこれを免れた唯一の人物である[注釈 1]。
中谷友香の「幻想の√5」でオウム時代についてインタビューに答えている。
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