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琉球王国の王世子の邸宅 ウィキペディアから
琉球王国の王世子は、中城間切(現:中城村、北中城村、うるま市(津堅島))を采地(領地)としていたので中城王子と呼ばれ、その邸宅は中城御殿と呼ばれた。ここから転じて、中城王子その人も、他の御殿(うどぅん)当主と同じように、主に話し言葉で中城御殿と呼ばれるようになった。
中城御殿は、最初首里城へ至る綾門大道(都大路)に面した現・沖縄県立首里高等学校の敷地に尚豊王時代に創建された。
1870年(明治3年)、龍潭北側に新たに建設されることが決まり、1873年(明治6年)着工、1875年(明治8年)完成した。新しい中城御殿は敷地約3000坪、建物は約800坪(別棟を除く)あった。
廃藩置県時の首里城明け渡し後は、琉球国王が中城御殿へ退去してその本邸となり、尚侯爵家の東京移住後は沖縄における尚家本邸となった。
1945年(昭和20年)、沖縄戦により焼失し、多くの尚家伝来の宝物もその後の米軍略奪に遭い、現在まで行方不明となっている。戦後は、琉球政府立博物館、後沖縄県立博物館の敷地となり、2007年(平成19年)、新県立博物館へ移転のため閉館した。2012年(平成24年)、博物館跡地に中城御殿が復元されるとの報道がなされた[1]。
中城御殿にあった多くの尚家伝来の宝物は、戦時中敷地内の側溝等に隠して戦禍を免れたが、戦後その多くが軍港で税関検閲官をしていたカール・スタンフェルト(Carl Stanfelt)米海軍中佐らによって略奪されて米国へ持ち出された。『おもろさうし』(尚家本)や琉球国惣絵図(18世紀)など、一部発見・返還されたものもあるが、スタンフェルトの死後、彼の家族によって、1977年、200点余りがオークションに売りに出されるなどして、王冠(皮弁冠)、御後絵(国王の肖像画)、漆器類など数十点が、いまだに行方不明となっている。2000年の沖縄サミットを機に、中城御殿から持ち出された王冠、皮弁服(国王装束)、御後絵11点は盗難品として、連邦捜査局(FBI)の盗難美術品リストに登録された。
2024年3月、戦争によって流出し米国で発見された文化財22点が沖縄県に引き渡され、その中に御後絵(第4代尚清王・第13代尚敬王・18代尚育王、および3分割された比定者不明のもの)が含まれていることが、玉城デニー沖縄県知事によって発表された[2][3][4][5][6]。
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