不知火(しらぬい / しらぬひ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、東雲型駆逐艦の4番艦である。同名艦に陽炎型駆逐艦の「不知火」があるため、こちらは「不知火 (初代)」や「不知火I」などと表記される。
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艦歴 |
計画 | 第一期拡張計画[1](1896年度[2]) |
起工 | 1898年1月[2] |
進水 | 1899年3月15日[2] |
竣工 | 1899年5月13日[2] |
除籍 | 1922年4月1日 |
その後 | 二等掃海艇[2] 1923年6月30日二等掃海特務艇[2] 1923年8月1日雑役船(運貨船)[2] 1925年2月25日廃船認許[2] |
要目 |
排水量 | 常備:322トン |
長さ | 63.6m |
幅 | 6.0m |
吃水 | 1.7 m[3] |
機関 | 2軸推進、5,475shp |
速力 | 30ノット |
航続距離 | |
乗員 | 58人[4] |
兵装 | 8.0cm単装砲1基 57mm単装砲5基 45cm水上発射管2門 |
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1899年5月13日、イギリス・ソーニクロフト社で竣工し、水雷艇(駆逐艇)に類別[2]。同年11月10日、横須賀に到着[2]。1900年6月22日、軍艦に編入され、駆逐艦に類別[2]。
1904年、日露戦争が勃発した際には第2艦隊第5駆逐隊に所属していた[5]。旅順口攻撃、黄海海戦、日本海海戦、樺太の戦いなどに参加した[2][5]。
1905年12月12日駆逐艦に種別変更[2]。
1912年8月28日三等駆逐艦[2]。
1922年4月1日、特務艇(二等掃海艇)に編入。1923年6月30日、二等掃海特務艇に類別変更。同年8月1日、雑役船(運貨船)に編入され、公称第2625号に改称。1925年2月25日、廃船認許。
錨が東京都墨田区両国4丁目の区立両国小学校に設置されている[6]。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 回航委員長
- 矢島純吉 少佐:1898年6月28日 - 1898年10月19日
- 笠間直 少佐:1898年10月19日 -
- 艦長
- 村松亥四松 大尉:1900年6月22日 - 1900年7月28日
- 隅元通純 大尉:1900年7月28日 - 1900年9月25日
- 小林恵吉郎 少佐:1900年9月25日 - 1903年6月22日
- 小黒秀夫 少佐:1903年6月22日 - 1903年9月26日
- 西尾雄治郎 少佐:1903年9月26日 - 1904年3月10日
- 渡辺仁太郎 大尉:1904年3月10日[7] -
- 桑島省三 大尉:1904年9月11日 - 1905年12月12日
- 駆逐艦長
- 桑島省三 少佐:1905年12月12日 - 1906年1月25日
- (兼)田代巳代次 少佐:1906年1月25日 - 1906年3月20日
- (兼)堀江鶴彦 大尉:1906年3月20日 - 1906年4月23日
- 猪山綱太郎 少佐:1906年4月23日 - 1907年4月27日
- 横地錠二 大尉:1907年4月27日 - 1907年9月28日
- (兼)斎藤温海 大尉:1907年9月28日 - 1907年10月10日
- (兼)野田為良 大尉:1907年10月10日 - 1908年1月15日
- 阿部真一郎 大尉:1908年1月15日 - 1908年1月16日
- (兼)野田為良 大尉:1908年1月16日 - 1908年2月1日
- 副島村八 大尉:1908年2月1日 - 1909年5月25日
- 和田健吉 大尉:1909年5月25日 - 1910年1月15日
- 阿部恒雄 大尉:1910年1月15日 - 1911年5月23日
- 米原末男 大尉:1911年5月23日 - 1912年2月1日
- 中山鞆信 大尉:1912年2月1日 - 1912年11月13日
- 小川正冬 大尉:1912年11月13日 - 1913年5月24日
- 加島次太郎 大尉:1913年5月24日 - 不詳
- 丸山半三郎 少佐:不詳 - 1916年6月8日
- 森田弥五郎 大尉:1916年6月8日 - 1917年4月1日
- 松川晃 大尉:1917年4月1日 - 1917年12月1日[8]
- 奥野晃 大尉:1917年12月1日[8] - 1918年12月1日[9]
- 戸須賀千之 大尉:1918年12月1日[9] - 1920年7月1日[10]
- 早川定三 大尉:1920年7月1日[10] - 1921年11月10日[11]
- (兼)須賀彦次郎 大尉:1921年11月10日 - 1922年2月1日
- (兼)大島信哉 大尉:1922年2月1日[12] -