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日本の教育者 ウィキペディアから
三沢 糾(みさわ ただす、1878年(明治11年)10月12日 - 1942年(昭和17年)5月25日)は日本の教育者。広島高等師範学校教授を経て、和歌山県立海草中学校(現・向陽中学・高校)校長、大阪府立高津中学校(現・高津高校)初代校長、大阪府立第十二中学校(現・生野高校)校長事務取扱、台北高等学校校長、(旧制)成城高等学校校長、ハルピン学院院長と多くの学校のトップを務めた。
宮崎県児湯郡上江村の篤農家・三沢立身の二男として生まれ、第五高等学校 (旧制)法文科を経て東京帝国大学哲学科を卒業[1]。五高時代にキリスト教に入信。東大在学中に吉野作造らとともに本郷教会で雑誌『新人』の編集に携わる[2]。
1906(明治40)年、マサチューセッツ州のクラーク大学 (en:Clark University)心理学科の名誉研究員となり、博士号を取得、博士論文『現代の教育者たちとその理念』は1909年に出版され、ニューヨークタイムズ紙でも紹介された[3]。
水産講習所のドイツ語講師などを経て、1912(明治45)年、広島高等師範学校教授に就任。広島高師附属中学校主事を務めた後、1915年、和歌山県立海草中学校(現・向陽高校)校長となった。
1918年、新たに設立された大阪府立第十一中学校(翌年高津中学校に改称)の初代校長に就任。入試にメンタルテストを採用し、夏の白制服を霜降りにし、修身の授業では英文原書を用いて自ら講義し、校技としてサッカーと剣道、淀川マラソンを採用、学年旅行に富士登山、日本アルプス縦走、台湾、朝鮮、満州旅行など数々の新機軸を実施して注目を集めた[4][5]。1923年、校長訓辞で「自由と創造」に言及。1924年に大阪府立中学として初めて女性教師3人を採用するなど、大正デモクラシーの気風の中で自由な校風を確立した。そのため、創立わずか数年で全国的に有名校化。多くの見学者が訪れ、「東の伊藤(東京府立第五中学校)、西の三沢」と称され、自由主義教育の象徴とされた。後にNHK連続テレビ小説「はっさい先生」に登場する上本町中学校長(演・中村嘉葎雄)のモデルとなった。
1925年、台北高等学校2代目校長として台湾に赴任。生活指導を担当する「生徒監」を廃止し、学校紛争を防止。「自由の鐘」を米国の農場から移設した。
1929年、京都帝国大学学生科長に就任。1931年、成城学園に転じ、教育顧問を経て成城高等学校 (旧制)校長になったが、学園紛争のため3か月で辞任した。その後、神戸女学院の院長に誘われたが、受けなかった。
1935年、旧満州にわたりハルピン学院院長を務めたが、関東軍との折衝に限界を感じ、1938年退任。1939年から長男夫婦とリンゴ園を経営しながら執筆活動に入った。
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