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三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1日 - 1965年(昭和40年)4月20日[2])は、日本の政治家・小説家・劇作家・演劇評論家。位階・勲等・爵位は正三位勲二等子爵。二荒芳徳とともにボーイスカウト運動を日本に広めた人物として知られる。東京府麻布区生まれ、学習院中退[3]。ペンネームに三島 章道(みしま しょうどう)。
祖父は三島通庸。父は第8代日本銀行総裁を務めた三島弥太郎、母は四条隆謌侯爵の三女・加根子。妹・壽子の夫は阪谷希一、妹・梅子の夫は土方与志。妻は松岡均平の長女・純[4]。叔父に三島弥彦がいる。
幼少期から文学に親しむ。一方で、祖母・和歌子から薩摩の郷中の掟を教わる(*)。
1907年(明治40年)、10歳の時に叔父の三島弥彦に連れられて、弥彦が審判をする第一高等学校対第三高等学校の野球試合の観戦に行った。このときファールボールが胸に直撃したことが原因で、肋膜炎(胸膜炎)を発症し、約3か月間、入院する。退院後は大磯町にあった三島家の別荘で療養を余儀なくされる。これを機に大磯小学校に転入(*)。後、学習院と大磯小学校の双方に友人を持ったことを生涯の自慢にしたという。
大磯での療養生活中に、特に学習院の先輩が立ち上げた白樺派を好んで読書に勤しむ。謄写版印刷機を買ってもらい友人と『チェリー』という名の雑誌を月2回、発行していたという(*)。
1911年(明治44年)、学習院初等科へ復帰。友人の土方与志らとともに雑誌『山水』や『三光』を発行。
この年、叔父・三島弥彦の1912年ストックホルムオリンピック参加への旅立ちを新橋駅にて見送る(*)。
1917年(大正6年)、土方与志ら学習院の友人らと劇団「友達座」を結成。
1919年(大正8年)、パリ講和会議に向かう牧野伸顕に留学のため同行するが、父・弥太郎の死去を受けて急ぎ帰国、3月31日、家督を継承して子爵を襲爵する[5]。帰国後、友達座に合流する。ところが上演のための女優募集が批判される。9月、最終的に宮内省からの干渉があり解散に追い込まれる。
1929年(昭和4年)、祖父・三島通庸が山形県令だった時に起きた関山隧道開鑿工事に関わる爆発事故の慰霊碑に揮毫。今も旧48号線旧道に残っている。
1932年(昭和7年)、貴族院子爵議員となり、研究会の幹部として活躍。
1935年(昭和10年)9月12日、東京宝塚劇場の取締役に就任(1943年12月9日まで)。
1937年(昭和12年)、日本ウエイトリフティング協会の会長となる(1948年まで)。
1942年(昭和17年)6月、広田弘毅元首相や矢田部保吉特命全権大使、水野伊太郎特命全権公使、朝海浩一郎書記官、東光武三書記官、岡本清福陸軍少将らとともに、日泰攻守同盟条約慶祝答礼使節団としてタイ王国を訪問する。
1944年(昭和19年)9月1日、小磯内閣で文部参与官に就任。
1945年(昭和20年)11月6日、幣原内閣の文部政務次官に就任。
1948年(昭和23年)2月に金子洋文と国会で議論したことがきっかけで、こどもの日が制定される。
1950年(昭和25年)1月5日、はじめてフリーメイソンの在日本ロッジにて日本人会員に認定されたうちの1人となる。6月4日、第2回参議院議員通常選挙に緑風会から出馬して当選。
ボーイスカウト日本連盟初代理事長兼中央実修所所長を経て、ボーイスカウト日本連盟第4代総長。
通陽にボーイスカウト運動を勧めたのは、竹内(内田)二郎(1897-1988)なる人物だが、義理の叔父である牧野伸顕がパリ講和会議から帰国した際に、芝居や文芸よりもボーイスカウトをやるよう勧めたという[6]。
なお、琵琶湖畔の雄松崎(滋賀県大津市)にある「日本ボーイスカウト初野営の地」の石碑の書は、三島の筆によるものである。ボーイスカウトの用事で出入りしていた松平頼明の家で、息子の松平頼武が影響を受け、加入した。
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