三岳城(みたけじょう)、または三嶽城は、静岡県浜松市浜名区引佐町三岳にあった日本の城跡(山城)。標高467メートルの三岳山の山頂にあり、井伊氏の戦時における本城であった。城跡は1944年(昭和19年)3月7日に国の史跡に指定されている[1]。
概要
南北朝時代に南朝方に与した井伊氏の城とされ、井伊谷城の北東2.5キロメートルに位置する。後醍醐天皇の皇子・宗良親王が遠州に入り、井伊氏に迎えられて拠点としたが、1340年(北朝:暦応3年/南朝:延元5年)に北朝方に攻められ落城した[2]。
その後、戦国時代に井伊氏により再び利用されており、駿河の守護大名・今川氏との抗争の地となったが、1513年(永正10年)に落城した[3]。現在城跡に残る土塁や空堀、石積などの遺構は戦国期に造られたものと考えられている[2]。
なお文化庁はこの城跡について、次のように解説している[4]。
井伊谷、伊平両村に跨る三嶽山々上にあり、宗良親王を奉ぜる井伊氏の本城にして親王此處に坐せしことあり東海に於ける官軍の最も重要なる根據地たりしが興國元年正月賊軍の攻略するところとなれり。城構は山城に屬し主峯に主要部を置き其の東に連聯る稍々低き峯に亙って營まれ標高四百六十六メートルの主峯頂上を削平して本丸を設け南北兩面は其の急崖を利用し東面は施設比較的簡單なるも西面は最も嚴重に防備せられ斜面を階段状に削平して郭を設け所々に土壘、石壘を築く東峯にも亦遺構を存せり、此の地には後永正年間斯波義達、井伊直親の據りしこともあり現存の遺構中吉野時代以後の構築と推定せらるるものありと雖山頂に立てば西南方眼下に濱名湖の大半を一望の中に収め遠く新居舞阪方面も指摘することを得親王が井伊城に坐せし砌濱名の橋、橋本の松原を見渡して詠じ給へる御歌の御詞書に極めてよく適へり。
脚注
参考文献
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