三宅タロー

日本の柔術家、プロレスラー ウィキペディアから

三宅タロー

三宅 タロー(みやけ たろう、Taro Miyake)[注釈 1]こと三宅 多留次(みやけ たるじ、1881年 - 1935年[1]は、日本出身の柔術柔道の指導者であり、プロレスラーである。20世紀初頭にイギリスでの柔術の確立に貢献した[2]

概要 三宅 タロー Taro Miyake, プロフィール ...
三宅 タロー
Taro Miyake
Thumb
パリのマイトロットの道場を訪問した三宅(1914年)
プロフィール
身長 5 ft 7 in (1.70 m)
体重 165 lb (75 kg)
誕生日 1881年
死亡日 1935年
出身地 日本 岡山県上道郡沖田村(元 岡山市中区沖元)
トレーナー 田辺又右衛門
半田弥太郎
デビュー 1898年
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生涯

日本では不遷流第4代の田辺又右衛門、大阪の大東流柔術創始者の半田弥太郎に師事した。1899年(明治32年)に奈良の学校で柔術の教師として働き始め、2年後には神戸で警察の柔道師範に任命された。しかし、1904年に乱闘騒ぎに参加したことが原因で解雇され、ロンドンに渡った[3]

三宅はロンドンのショーやミュージックホールを巡って柔術の試合を行った。その中で、柔術の現役王者・谷幸雄を破ったことで有名となった[4]。その後、三宅は谷と手を組んで、柔術学校を開校したり、"The Game of Ju-Jitsu"という本を共著で出版したりした。1908年からは、同郷の上西貞一前田光世らと共にヨーロッパを巡り、グレート・ガマに挑戦したこともあった。

1914年にアメリカに渡った。シアトルを拠点として活動し、柔術の学校を設立した[5]。1917年10月20日、三宅はプロレスラーでキャッチレスリング選手のアド・サンテルと対戦した。三宅は勇敢に戦ったが、サンテルのハーフ・ネルソン・スラムを受けて敗れた[6]プロレスに興味を持った三宅は、エド・ルイス(ザ・ストラングラー)の下でプロレスラーとして働き始め、トゥーツ・モント英語版やクラレンス・エクランドらと試合をした。1928年、三宅はアメリカのレスラー3人を伴って日本に帰国し、プロレスの巡業を行った。しかし、当時の日本ではプロレスはほとんど知られておらず、興業的に大失敗してアメリカに戻った。1931年にはハワイで日系人の檀山流柔術家の識名盛夫(沖識名)をスカウトした。1932年、50代になってもまだマディソン・スクエア・ガーデンで試合に出場していた[2]

1935年に死去した[1]

著書

  • Yukio Tani; Taro Miyake (1906). The Game of Ju-jitsu: For the Use of Schools and Colleges
    • 日本語訳: 谷幸雄、三宅タロー『対訳 The Game of Ju-jitsu 柔術の勝負 明治期の柔道基本技術』内田賢次 監修、創英社、2013年。ISBN 978-4881428115

主な戦績

勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
×Ad SantelハーフネルソンスラムによるKOSeattle, WA1917年10月20日
John BergSpokane, WA1918年3月15日
×Canadian Jack TaylorVancouver, BC1919年1月23日
×Jim Londos英語版1920年4月8日
×Canadian Jack TaylorCasper, WY1921年4月
×Ed "Strangler" Lewis"Chicago, IL1923年12月31日
Fred BilgerSt. Louis MO1924年2月19日
×Oresti VadalfiSt. Louis MO1924年12月4日
Bull Montana英語版Columbus, OH1927年3月2日
Ray CarpenterColumbus, OH1927年3月9日
Jack KogutColumbus, OH1927年3月16日
×Ray CarpenterColumbus, OH1927年3月23日
×Jim LondosBrooklyn, NY1931年3月11日
×Jim LondosLouisville, KY1931年5月16日
×”Tiger” NelsonWashington DC1931年5月28日

脚注

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