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フランスの王家であるヴァロワ家の支流 ウィキペディアから
ヴァロワ=オルレアン家(ヴァロワ=オルレアンけ、フランス語: maison de Valois-Orléans)は、フランスの王家ヴァロワ家の支流の一つ。ヴァロワ朝後期の6代の国王はこの家系の直系、およびさらにその支流であるヴァロワ=アングレーム家(maison de Valois-Angoulême)から出ている。
ヴァロワ朝第3代のフランス王シャルル5世が、成人に達した2番目の息子であるルイに対して1392年にオルレアン公の爵位を授けたのが始まりである。ルイに先立つフランスで最初のオルレアン公として、シャルル5世の叔父フィリップがいたが、1376年に嗣子なく死去した後は公位が消滅していた。
オルレアン公ルイ(1世)は、精神異常の兄シャルル6世に代わって政治の実権を握ろうと、同じくヴァロワ家支流であるヴァロワ=ブルゴーニュ家の叔父フィリップ豪胆公やその息子ジャン無畏公と抗争を続け、無畏公の手の者によって暗殺された。その後、ブルゴーニュ公を旗頭とするブルゴーニュ派と、オルレアン公を継いだルイの息子シャルル(1世)を旗頭とするアルマニャック派の間で対立が激化し、百年戦争後期のフランス国内の混乱を招いた。詩人として知られるオルレアン公シャルルは1415年のアジャンクールの戦いで多くのフランス貴族とともに捕虜となり、イングランドで25年にわたる虜囚生活を送った。
シャルルが帰国後にもうけた息子ルイは、ルイ11世の娘ジャンヌと結婚し、ジャンヌの弟シャルル8世の死でヴァロワ家宗家の男子が絶えると1498年にルイ12世として王位を継いだ。この継承は王女との結婚でなくサリカ法を根拠とするものであった(ヴァロワ朝自体がサリカ法によって成立しており、これは百年戦争の原因にもなっていた)。即位後にルイ12世はジャンヌと離婚し、シャルル8世の未亡人アンヌ・ド・ブルターニュと再婚している。アンヌの祖母マルグリット・ドルレアンはオルレアン公ルイ1世の末娘である。ルイ12世はさらにアンヌと死別後、1514年にイングランド王ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーと再婚しているが、3ヵ月後にルイ12世自身が病没した。
ルイ12世の嫡子は2番目の王妃アンヌとの間の2女のみであった。そのため傍系のアングレーム伯フランソワ(フランソワ1世)に長女クロードと結婚させた上で王位を継がせた。フランソワ1世は、オルレアン公シャルルの弟アングレーム伯ジャンに始まるヴァロワ=アングレーム家の出身で、ジャンの孫、オルレアン公ルイ1世の曾孫であり、妃クロードとは又従兄妹であった。アンヌはまたブルターニュ女公でもあったが、公位はクロードが継いでいる。また、これ以降はアングレーム伯は公爵となった。
フランソワ1世の死後は、クロードとの間の息子アンリ2世が王位を継ぐ(ブルターニュ公位も継いだが、王位に統合した)。その後はアンリ2世の息子フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世が次々と若くして即位しては早世し、ヴァロワ家の正嫡の男子は絶えた。
ヴァロワ家断絶後、ブルボン家のアンリ4世が王位に就いてブルボン朝が始まるが、アンリ4世の母方の祖母マルグリット・ド・ナヴァールはフランソワ1世の姉であり、アンリ4世も女系ではヴァロワ=オルレアン家(ヴァロワ=アングレーム家)の血を引いている。また、アンリ4世の最初の王妃はアンリ2世の娘マルグリット・ド・ヴァロワであったが、子供をもうけないまま離婚している。
その一方で、後期ヴァロワ家がたびたび息子へ与えてきたアングレーム公は、シャルル9世の庶子シャルル・ド・ヴァロワが1620年にブルボン朝より許可されて再び世襲となったが、息子のアングレーム公ルイ=エマニュエルの時は娘アングレーム女公マリー=フランソワーズを残し、1696年にマリー=フランソワーズが世を去ったので、ヴァロワ家が世襲したアングレーム公はここでギーズ家へ渡った。
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