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古代ローマ軍の個人装備品一覧(Roman military personal equipment)は、古代ローマの軍勢が使用した個人装備(攻城兵器などの集団で使用する物は含まない)を分類した一覧である。時代(王政、共和政、帝政)や兵種によっての違い、装備品の使用目的などを分類する上の指標としている。
ローマ軍が使用した装備は同時代の中でも優れた物が多く、特に甲冑に関する技術は文明水準の低い蛮族相手に大きな優位を獲得する要因となった[1]。ただし、これは全ての場合でそうであった事を意味しない。時にローマが対峙した敵の中には同等以上の装備を使用する場合もあったし、また研究者の中には「ローマ軍の装備品の品質は必ずしも高くなかった」とする論者もいる[2]。
王政ローマ時代から共和政初期までの装備は、先にイタリア半島での覇権を獲得していた古代ギリシャやエトルリアの様式を参考にして導入されていた。イタリア半島統一後に相対したケルト人との戦いで新しい戦術の必要性を感じると、古代ギリシャ・エトルリア式にケルト式の装備を組み込んだ装備品が共和政中期に用いられた。また海軍はポエニ戦争までは小規模な海賊討伐用の艦艇を保有するのみであったが、同戦争からフェニキア式・ヘレニズム式の大型艦艇を導入した。
ローマ軍は独自の新兵器よりも、既に効果が実証されている旧来の装備を活用して戦う事を好んだ。従ってローマ軍の使用する兵器は基本的にオーソドックスなものであり、(軍装や装備品の形状に独特さはあっても)奇抜な装備は用いていない。
帝政後期の軍学者ウェゲティウスは『軍事論』の中でローマ軍の重装歩兵が使用していた装備について言及している。同著は帝国が西方領土から東方領土へと軸足を移し始めた時代である為、一部の装備品はラテン語から古代ギリシャ語に言い換えられている。ウェゲティウスはローマ軍の装備について以下の様に述べている[3]:
…歩兵(アルマトゥラ)はこれらを身に付けている為、大変に重装備である。頭には兜 (カッシウス)、体には大鎧(カタフラクタ)、脛当て(オクレア)、盾(スクトゥム)、大型の剣(グラディウス・ミノル)、長剣 (スパタ)、何本かの短剣(セミスパティウム)、盾に取り付けられた五本の投げ矢 (ピルムバタ) 、同じく盾に付いた二本の槍(ピルム)、これは投げて使う事もあれば馬上の兵に対して突き刺す事もあった。第一陣はこの様な装備を持った二列の軍勢から編成された。
彼らの後には運搬人(フェレンタリウス、ferentarius)と軽装歩兵(彼らはアウクシリア、補助軍と呼ばれている)が随伴している。軽歩兵は短めの剣(グラディウス)と盾と投げ矢、それに軽装の鎧を身に纏っている。弓兵(サジタリイ)は弓(アルクス)と矢(サジッタ)、兜と大鎧を身につけた。他に投石兵(フンディトル)は小石(ラピス) とスリング(フンダ)を持った。また大型の機械を使って弓を打ち出す兵士もいた[3]
ローマ軍の中核は共和政後期からは重装歩兵となったが、彼らの任務は時代によって変わった。共和政後期から帝政初期はグラディウスとピルムで戦い、投げ槍で敵陣を崩してから白兵戦を挑んだ。しかし帝政中期から後期はむしろピルムで槍衾を作って、騎兵や歩兵を突き崩す事を目的とした[4]。
防具もまた時代によって変化を続けているが、特に広大な帝国としての軍隊再編が進められた帝政初期(西暦1世紀から2世紀頃)は最もバリエーション豊かな装備品が前線で使用された。共和政時代から使用されていた板金鎧(ロリカ)、小札鎧(ロリカ・スクアマタ)、鎖帷子(ロリカ・ハマタ)、そして組立て式の板金鎧であるロリカ・セグメンタタと多様な装備が混在していた。
この中でも最後のロリカ・セグメンタタはローマ軍特有の発明品であり、現在でもローマ軍装の象徴として扱われている。装備としても一枚式のロリカ同様の十分な防御力を有していた。一方で数十枚の装甲片は管理が難しく、コストもロリカに比べて安くならなかった[11]。使用する上でも組み立てるのに手間が掛かる上に誰かに手伝って貰う必要があり、しかも金属片が体に当たって着心地が悪かった。結局、この装備は3世紀頃には使用されなくなり、組立式プレートアーマーで全軍に強固な防御力を与えようとする野心的な試みは失敗に終わった。それでも4世紀頃までは全軍が何かしらの甲冑で防備を行い、盛んに各地の武器工房で生産された[11]。また指揮官階層の人間は装飾を凝らした一枚式のロリカを身に付けていた(ロリカ・ムスクラタ)[12]。
まず幅広く打ち伸ばされた数枚の長い金属板(鉄製、或いは鋼鉄製)を楕円型に曲げ、その状態で真鍮製の止め金と革紐を使って両端を繋ぎ止め、胴体部分を組み立てる。その上から更に金属片を同様の手順で組合わせ、胸部を補強する。最後に小さな金属片を使って肩の防御部品を組み立てて完成となる。他の装備と同じく細かい修正が繰り返されており、今日知られている形状はトイトブルク森の戦いの古戦場から程近いカルクリーゼ、イングランドのコルブリッジ、ニューステッドなどで発見されたものを参考にしている。カルクリーゼ型は紀元前20年から西暦50年頃の帝政初期に用いられた可能性が高く、コルブリッジ型は西暦40年から120年、ニューステッド型は帝政中期に用いられた可能性もある。またルーマニアのアルバ・ユリア遺跡で発掘されたセグメンタタはかなり独特の形状をしており、このアルバ・ユリア型はより少ない枚数の金属片で鎧が組める様に工夫されている他に、一部に小札鎧が併用されている。
セグメンタタという組立式鎧というアイディア自体はかなり初期のローマ軍で既に見られるものであるが、全面的な使用が試みられたのは広く知られているように西暦2世紀頃となる。しかし結局は先述した通りに価格や利便性の点でデメリットが大きく、結局はより安価であるチェインメイル(ロリカ・ハマタ)の使用率を押し退けるには至らなかった。中世・近世時代においても大部分の兵士達はプレートアーマーなどよりチェインメイルを実践的な装備として使用しており、古代においてもその合理性は動かし難かった。またかつてはそもそも装備品は自弁が原則の時代もあり、そうした時代は当然ながら装備の統一感は無いに等しかった。従って「ローマ軍の鎧=ロリカ・セグメンタタ」というイメージはかなりステレオタイプな連想と云える。とはいえ直ちにその存在が消えたと考えるのも偏っており、実際には3世紀後半まで改良を重ねながら各地域で使用されている。
他にロリカ・セグメンタタはどの様な兵科・兵種で用いられたのかという点については議論がある。最も一般的な議論としては戦いの主力を成す重装歩兵であり、それ以外の兵種はロリカ・ハマタやロリカ・スクアマタを割り当てられていたと考えられている。別の考えでは特に兵科・兵種による装備の隔てはなく全軍での一律使用が求められていたと考える意見もあり、これは考古学的調査に基づいている。同様にセグメンタタが次第に主流ではなくなった理由についても価格・利便性以外に修理や整備の手間、重装備よりも移動速度を求める軍制度への改革などが一因に挙げられている。
ローマ軍は荷物袋をフルカと呼ばれる棒の先に結び、それを肩にかけて持ち運ぶ習慣があった(サルキナ)。共和政末期の将軍ガイウス・マリウスの時代からは更にサルキナの先に鎧と兜を結んで短時間で行軍する「マリウスのロバ」と呼ばれる戦術が駆使された。荷物袋には以下のものが収納された。
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