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第2代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアート(英: Robert Stewart, 2nd Marquess of Londonderry、1769年6月18日 - 1822年8月12日)は、アイルランド生まれのイギリスの政治家・外交官。襲爵前に称していたカースルレー子爵(Viscount Castlereagh)の儀礼称号で知られる。
第2代ロンドンデリー侯爵 ロバート・ステュアート Robert Stewart, 2nd Marquess of Londonderry | |
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![]() サー・トマス・ローレンスによるカースルレー子爵時代の肖像画 | |
生年月日 | 1769年6月18日 |
出生地 | アイルランド王国、ダブリン |
没年月日 | 1822年8月12日 (満53歳没) |
死没地 | イギリス、ケント、Loring Hall |
出身校 |
ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ The Royal School, Armagh |
所属政党 | ホイッグ党のちトーリー党 |
称号 |
ガーター勲章受勲者(KG) ロイヤル・ゲルフ勲章受勲者(GCH) 枢密顧問官(PC) |
配偶者 | エミリー・ホバート |
親族 | 第3代ロンドンデリー侯爵(異母弟) |
アイルランド大臣 | |
在任期間 | 1798年 - 1801年 |
イギリス東インド会社監督局総裁 | |
内閣 | アディントン内閣・第2次小ピット内閣 |
在任期間 | 1802年 - 1806年 |
内閣 | 第2次小ピット内閣 |
在任期間 | 1805年7月10日 - 1806年2月5日 |
内閣 | 第2次ポートランド内閣 |
在任期間 | 1807年3月25日 - 1809年11月1日 |
内閣 | リヴァプール内閣 |
在任期間 | 1812年3月4日 - 1822年8月12日 |
ダブリンでアングロ=アイリッシュ系貴族の家系に生まれる。父は初代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアート。アイルランド議会の議員を務めた後、イギリス議会に入り、アイルランド王国のグレートブリテン王国への併合を定めた1800年の合同法の制定に尽力した。その後、イギリスの外交を主導し、ウィーン会議にもイギリス代表として出席した。
父の死により侯爵位を継いだ1821年頃から精神に異常をきたし、1822年に自殺した。過労が原因であったと言われる。
後任の外務大臣になったジョージ・カニングとは犬猿の仲で、1809年9月には決闘まで行い、カニングに重傷を負わせたことがある。この事件でステュアート、カニングの両名はそれぞれ陸相と外相を辞任する事態となった。
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