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ロドニー・M・デイヴィス (フリゲート)

オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート ウィキペディアから

ロドニー・M・デイヴィス (フリゲート)
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ロドニー・M・デイヴィス (英語: USS Rodney M. Davis, FFG-60) は、アメリカ海軍のミサイルフリゲートオリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートの50番艦。艦名はベトナム戦争での英雄的行動で戦死し、名誉勲章を受章したロドニー・M・デイヴィス英語版軍曹(1942 - 1967)に因む。

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艦歴

要約
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就役

ロドニー・M・デイヴィスはカリフォルニア州サンペドロトッド・パシフィック造船所で1982年10月28日に起工する。1986年1月11日に進水し、1987年5月9日に就役した。ロドニー・M・デイヴィスは第15駆逐戦隊に配属され、日本横須賀港を母港とした。

長崎港寄港

1989年9月15日、ロドニー・M・デイヴィスは「補給と休養」を理由に[1]長崎港に入港し、ピーター・G・ロバーツ艦長長崎市役所長崎県庁を表敬訪問するほか、平和祈念像花輪を献花する予定となっていた。これに対し、長崎原爆被爆者や遺族からなる長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)は、核兵器を搭載している疑惑がある[注釈 1]軍艦の入港は、軍港ではない長崎港の「核慣らし」と批判し、長崎港を管理する長崎県庁に入港拒否を要請したほか、在福岡米国領事館を通して中止を求めた。しかしロドニー・M・デイヴィスは予定通り長崎港に寄港したため、松が枝埠頭には約400人の被爆者が詰めかけ抗議活動を行った[2]

翌9月16日[3][4]、ロバーツ艦長は長崎市役所を訪問し本島等市長と面会した。本島市長は非核三原則の順守を再三問うたが、ロバーツ艦長は「安保条約は守っており、核搭載については否定も肯定もしないのが米側の政策だ。」との回答を繰り返した。ロバーツ艦長は「市民の核兵器に対する特別な感情はよく理解しているつもりだが、一層、理解を深めるため、平和公園での献花に市長の同行をお願いしたい」と要請したが、本島市長は「核疑惑がある限り、私が案内するのは差しひかえたい」「感情が許さない」と拒否し、会談は30分で終了した。ロバーツ艦長は長崎県庁に向かい、怒号が飛び交う中柴田芳男副知事と20分会談した[4]

山口仙二会長や谷口稜曄ら長崎被災協のメンバー約50人が平和記念像の前で座り込み抗議を行う中、予定通りロバーツ艦長による献花が行われた。その直後、艦長を追いかけたカメラマンの足が花輪に引っ掛かり、花輪が倒れてしまった。すると、「これは献花じゃない!」「原爆はわれわれ被爆者を焼き殺したんだ。毎日たくさんの被爆者が今も殺され続けている」と山口会長と被爆者遺族2人が倒れた花輪を踏み躙り続け[2][4]、その姿がニュース映像として放送された。山口は浦上警察署から事情聴取を受け[4]、9月21日に長崎市内の市民活動家に、器物損壊罪告発された[5]。山口たちの行動は、市民や被爆者からも批判の声が挙がった[1][2]が、谷口は同じ被爆者として山口の行動に理解を示し[2]、山口も後の取材で下記のように語っている[1]

非礼という批判。いろいろあるでしょう。だが多くの人が熱線で焼き殺された場所に核疑惑艦の艦長が軍服姿で献花に来るとは。怒りが収まらなかった。

退役

2005年の時点でロドニー・M・デイヴィスはワシントン州エヴェレットを母港とし、第9駆逐戦隊に所属した。2015年1月23日退役。退役後、2022年のアメリカ海軍主催多国間共同訓練「リムパック」の水上艦撃沈訓練(SINKEX)で標的艦として処分されることになった。7月12日、ロドニー・M・デイヴィスは、カウアイ島北方50海里で、米4カ国の海軍の対艦ミサイルの標的となった。ロドニー・M・デイヴィスは、艦橋の後部と前部に被弾し沈没した[6]

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脚注

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関連項目

外部リンク

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