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李 翰祥(り かんしょう、リー・ハンシャン、1926年4月18日 - 1996年12月17日[1])は、中国奉天省錦西県[2](現・遼寧省葫芦島市連山区)出身の香港の映画監督[1]。
1926年、奉天省錦西県小蘇家屯に生まれる[2]。1930年、父親の仕事の都合で熱河省承徳に移り、1932年に日本軍の熱河侵攻を逃れて北平(現・北京)に移った[2]。北平芸術専科学校に入学し西洋画を学ぶが、高校を出ていないことが発覚して除籍となり、1948年に香港に渡った[2]。翌年に永華電影公司 に俳優として入社し、その後は美術スタッフなども務めた[2][1]。1954年、『嫦娥』で共同監督の一人として初監督[2][1]。同年にショウ・ブラザーズの前身の邵氏父子公司に移籍した[2][3]。ショウ・ブラザーズでは、「黄梅調」と呼ばれる歌唱時代劇映画のブームの中心となり、『江山美人』、『梁山伯と祝英台』などのヒット作を発表した[3]。1963年、『梁山伯と祝英台』が金馬奨で最優秀作品賞など6部門を受賞[2]。同年の冬、台湾で国聯影業を創業した[2]。1965年の作品『西施』は金馬奨で最優秀作品賞など5部門を受賞し、台湾映画史上空前の歴史大作と言われる[4]。国聯影業は経営的にはうまくゆかず1970年に廃業し[4]、李は1971年に香港に戻った[2]。1972年にコメディ映画『大軍閥』を発表、当時テレビの司会者として活躍していたマイケル・ホイを主役に抜擢し、映画界に引き入れた[5]。これを皮切りに、70年代にはエロティック・コメディを多く監督したが、本人が心血を注いでいたのは1975年の歴史映画『傾國傾城』とその続編『瀛台泣血』であるという[5]。80年代には中国大陸との合作で『西太后』、『火龍』を発表[1]。1996年にテレビドラマの撮影のために滞在していた北京で、心臓病の発作で死去した[1]。
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