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リベリア内戦(リベリアないせん、英: Liberian Civil War)は、西アフリカに位置するリベリア共和国における内戦である。1989年から1996年の第一次リベリア内戦 (First Liberian Civil War) と、更に1999年から2003年の第二次リベリア内戦 (Second Liberian Civil War) の2度、内戦が起きている。第1次内戦の時は、15万人以上の死者を出し、30万人以上の難民を出した。リベリア内戦は、主に政府機関の利権をめぐる争いであるが、民族的な対立の側面もあった。
リベリアの政治は長くアメリカの解放奴隷の子孫であるアメリコ・ライベリアンのホイッグ党が支配しており、リベリアの先住民部族は彼らに差別と弾圧を受けてきた。しかし、アメリコ・ライベリアンの優位に不満を持つクラン族 (Krahn) 出身のサミュエル・ドウ軍曹率いる先住民部族が1980年に軍事クーデターを起こし、アメリコ・ライベリアンのウィリアム・R・トルバート大統領およびトルバートの下で働いた高官数名を殺害し、アメリコ・ライベリアンの政権を倒した。
ドウは政権を獲得したのち独裁政治を始め、ドウに反対する者の逮捕や処刑を進めていった。1985年11月12日にはギオ族 (Gio Tribe) 出身で1980年のドウのクーデターに参加していたトーマス・クィウォンパ将軍率いるギオ族とマノ族のメンバーらが、ドウ政権に反発し軍事クーデターを起こした。しかしこのクーデターは失敗し、クィウォンパらドウに逆らったギオ族とマノ族のグループらは同月15日に処刑された。その後ドウは、自身の出身部族であるクラン族のみで結成したリベリア軍(AFL) (Armed Forces of Liberia) をギオ族とマノ族が住む地域に派兵し、復讐のためギオ族とマノ族を虐殺した。
1986年の選挙でドウは大規模に不正を行い、大統領になった。翌1987年、アメリコ・ライベリアンのチャールズ・テーラーが、ドウの独裁政権を倒すためリビアでリベリア国民愛国戦線(NPFL、National Patriotic Front of Liberia)を結成し、ゲリラ戦の軍事訓練を受けた。
第1次リベリア内戦 | |||||||
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リベリア内戦中 | |||||||
INPFLの兵士(1990年) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
リベリア軍 ナイジェリア ガーナ ギニア ガンビア シエラレオネ |
支援 リビア ブルキナファソ RUF | ||||||
指揮官 | |||||||
サミュエル・ドウ ジョージ・ボレイ ヘゼキア・ボーウェン アルハジ・クロマー ルーズベルト・ジョンソン ジョシュア・ブライ サニ・アバチャ |
チャールズ・テーラー プリンス・ジョンソン ベンジャミン・ヤーテン ムアンマル・アル=カッザーフィー ブレーズ・コンパオレ アハメド・フォディ・サンコー |
リビアで軍事訓練を受けていたテーラーは、クラン族のドウ政権に苦しめられていたギオ族とマノ族と手を組んだ。1989年12月24日、NPFLはコートジボワール側から国境を越えリベリアのニンバ郡ブトゥオ村に侵入し、駐留していたクラン族主体のリベリア軍と衝突(リベリア軍の兵士250名は全員死亡)、内戦が勃発した。1990年に入ると戦火はリベリア全土に拡大。1月4日にドウ政権に批判的として知られていたロバート・フィリップスがモンロビアで反逆罪に問われ酷刑に処される。さらにその後ニンバ郡でリベリア国軍により、ギオ族とマノ族の住民500人が処刑され、またNPFLもブトゥオ村で200人を虐殺した。
2月に入り、親米派だったプリンス・ジョンソン(1985年のクーデターに参加し、事件後コートジボワールに亡命していた)が、仲間のギオ族と共にリビアとの関係を深めるテーラーのやり方に反発し、NPFLから離脱してリベリア独立国民愛国戦線(INPFL) (Independent National Patriotic Front of Liberia) を結成。テーラーはジョンソンを反逆罪で捕まえて処刑すると宣言した。
やがて、首都モンロビアを除いてはドウ政権とリベリア軍だけでは手に負えない状況となり、アメリカ国務次官補のアフリカ担当もドウ政権崩壊はもはや避けられないと発言。政権内部でもハリー・モニバ副大統領がドウに辞任を求めるなど、ドウ政権はもはや末期の様相を呈していた。5月、アメリカ海兵隊が在リベリアのアメリカ大使館のアメリカ人ら米邦人を救出する為、リベリアに到着(シャープエッジ作戦)。6月14日にモンロビアのキリスト教会の関係者が、アメリカに内戦終結の為のアメリカ軍介入を求めるデモを、モンロビア駐在アメリカ大使館前で行った。ドウは子飼いのリベリア国軍の幹部らとともに、アメリカ軍の護衛の下、故郷グランドゲデ郡まで安全に帰してくれるなら、すぐにでも大統領を辞任してもよいと発言し、さらにアメリカに亡命援助を申し出るが拒否されてしまう。アメリカはそれまでドウ政権の後ろ盾を担っていたが、内戦の原因がそもそもドウの独裁政権にあるとされたうえ、INPFLのジョンソンが親米派だったためアメリカはジョンソンの方に期待していたとされる(アメリカは裏でINPFLに武器を援助していたといわれている)。
アメリカに事実上見放されたドウは大統領官邸に篭っていたが、最後の望みとしてナイジェリアのイブラヒム・ババンギダ将軍に、西アフリカ諸国経済共同体監視団(ECOMOG)の仲介でINPELと同盟の協議を行いたいと、大統領官邸からモンロビアのECOMOG本部に護衛の部下90人を連れてやって来る。その事が同じモンロビアに駐在するINPELの陣地のジョンソンに伝わり、ドウをだまし討ちで捕らえるため、ドウと話し合いたいとECOMOG側に伝える。その返答はドウ本人に届けられ、ジョンソンを信じたドウはECOMOG本部でジョンソンが来るのを待った。ジョンソンはドウを捕らえるため、ジープに武器を隠して(ECOMOG本部には規則で武器を持って入れなかったため、ドウの護衛兵90人もECOMOG本部前に武器を置いていた)部下20人をECOMOG本部に向かわせた。ECOMOG本部に入ったINPELの兵士らは、参謀本部にいた丸腰の護衛兵90人を皆殺しにして、ドウが待つ参謀本部の2階に侵入した。ガーナ人のECOMOG司令官アーノルド・クアイノーは抵抗をあきらめ、ドウをINPFLにあっさりと引き渡した。ドウはジョンソンが待つINPFLの陣地に連行されリンチにかけられた。ドウは必死になって話し合おうとしたが、ジョンソンはドウの話に聞く耳を持たず、部下に命令してドウの耳や指、鼻を切り落とすなど残酷な拷問を加えた後、ドウを銃殺刑に処し、ドウ政権は倒された。
ドウ亡き後、反テーラーを揚げるマンディンゴ族のアルハジ・クロマー (G. V. Kromah) 率いるムスリム系組織リベリア民主統一解放運動(ULIMO) (United Liberation Movement of Liberia for Democracy) の「軍事派」が武装蜂起し、エーモス・ソーヤー (Amos Sawyer) がモンロビアのみの暫定的な大統領になった。しかし、テーラーのNPFLやジョンソンのINPFLはそれを認めず、1992年になるとリベリアはソーヤー派とテーラー派とジョンソン派の3つに分かれ、さらに、ULIMOから分離し、殺されたドウ元大統領の下で働いていた、同じクラン族出身のルーズベルト・ジョンソン (Roosevelt Johnson) のULIMOジョンソン派(ULIMO-J、-Johnson faction)、同クロマー派(ULIMO-K、-Kromah faction)などの武装勢力も加わり戦闘が悪化していった。NPELには5歳以上の「チャイルド・ソルジャー・ユニット」と呼ばれる少年兵部隊がいたが、他の武装勢力にも同様に少年兵がいた。またテーラーと隣国シエラレオネの反乱軍革命統一戦線(RUF、Revolutionary United Front)のリーダーであるアハメド・フォディ・サンコーとはリビアでのゲリラ訓練以来の付き合いであり、同年にはNPFLは国境を越え、シエラレオネでRUFと共に戦闘を行っていた。1993年に一時、和平交渉に合意したものの、その後も戦闘が続いた。
1996年、平和維持活動を行っていた西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の監視の下、選挙でテーラーが大統領になった。テーラー政権でひとまず内戦は終結したが、テーラーはシエラレオネの同胞のサンコーに武器支援と共にダイアモンドを密輸していたため、アメリカなどから厳しい経済制裁下に置かれ、内戦が終わっても国の復興はうまく出来ず、状況は悪いままだった。1997年テーラー大統領暗殺未遂事件が起き、ECOMOGがULIMO-Jのマディソン・ウィオンら3名を逮捕した。
そんな不満からついに1999年頃からセクー・コネ (Sekou Conneh) 率いる反テーラーの武装勢力リベリア民主和解連合(LURD) (Liberians United for Reconciliation and Democracy) やトマス・ニメリー (Thomas Nimely) 率いるリベリア民主運動(MODEL) (Movement for Democracy in Liberia) の武装勢力が蜂起し勢力を拡大。2003年には首都モンロビアへ進攻した。この時点ですでにテーラーの権力は弱体化しており、6月17日には政府と停戦合意するに至った。その後アメリカなどによる圧力や、西アフリカ諸国経済共同体による平和維持軍と800人ほどのアメリカ陸軍の到着などから、テーラーはナイジェリアに逃亡した。この結果、政府・反政府勢力間で和平合意が結ばれ、停戦に至った。その後国際連合リベリア・ミッション(UNMIL)が設立され、和平のために、停戦合意の検証、武装勢力の武装解除および社会復帰支援、人権擁護の推進、治安状況の回復支援、和平合意の推進支援を行なっている。
反テーラー攻勢の中心となったのは、リベリア民主和解連合(LURD)である。LURDは実質的にULIMO-Kを再結成したような組織であり、戦闘員はULIMOと同様クラン族やマンディンゴ族によって構成されていた。また、LURDはギニア、シエラレオネ、アメリカの支援を受けており、ギニアとシエラレオネの国境地域を拠点としていた。
LURDは継続的なゲリラ活動によって政府側の支配下と見た地域を次々と攻撃し、また、2003年3月にはコートジボワールに支援を受けたリベリア民主運動(MODEL)も戦線に参加。同年にはリベリア全土のテーラー政権の支配地域を3分の1まで縮小させることに成功していた。
テーラーは軍を解体して司令官としてジョン・テルヌエ(John Tarnue)を任命し、新たに6,000人(陸軍5,160人、海軍600人、空軍240人)の兵士によって軍を再編した。第二次内戦においてリベリア正規軍の役割は大きくなく、テーラー政府軍の主戦力となったのは元NPFL戦闘員や少年兵といった民兵であった。
更に正規軍や民兵だけでなく、以下の不正規部隊がテーラー政権の要人警護や対反乱作戦に参加していたとみられる。
また、これらの部隊はほかの部隊同様たびたび略奪行為や民間人の殺害を行うことから(特にATUはテーラー・ジュニアの拷問などに加担し“Demon Force(悪魔の部隊)”と呼ばれ恐れられていた。)戦後隊員たちの中に特別法廷にて逮捕され、処罰を受ける者が多かった。
これらの内戦では政府軍、反政府軍の両方が戦闘中に気分を高揚するために麻薬を使用したとみられている。主に使用されていたのはコカインやカートなどであり、リベリアの戦場において薬物は必要不可欠なものになっていた。
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