ウォルター・ジェームズ・ヴィンセント・モランビル(Walter James Vincent "Rabbit" Maranville, 1891年11月11日 - 1954年1月5日)は、マサチューセッツ州出身の1910年から1930年代にかけて活躍したアメリカメジャーリーグの選手。ポジションは遊撃手。右投げ右打ち。

概要 基本情報, 国籍 ...
ラビット・モランビル
Rabbit Maranville
ラビット・モランビル (1914年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 マサチューセッツ州スプリングフィールド
生年月日 1891年11月11日
没年月日 (1954-01-05) 1954年1月5日(62歳没)
身長
体重
5' 5" =約165.1 cm
155 lb =約70.3 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1912年
初出場 1912年9月10日
最終出場 1935年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1954年
得票率 82.94%
選出方法 BBWAA選出
閉じる

ニックネームはRabbit(ラビット)。守備範囲の広い遊撃手として、また球界随一の「道化師」として有名だった。

経歴

1912年に、ニューイングランドのニューベッドフォード球団からボストン・ブレーブスに買われてメジャーリーグにデビューする。モランビルは小柄で目だった打力があったわけではないが、その内野守備範囲の広さで注目を集めるようになる。メジャー3年目の1914年から1917年まで、遊撃手としての刺殺数は4年連続でリーグ最多を記録した。小柄な割に耳が大きく、また機敏にゴロを捌く姿から、彼には「ラビット」の愛称がついた。[1] また1914年には初めてワールドシリーズに出場、最優秀選手投票で次点となった。

1921年にパイレーツに移籍。1923年には遊撃手として刺殺数、補殺数、併殺数、守備率でリーグトップ、また1924年には二塁手として補殺数、併殺数、守備率でリーグトップの成績を残す。同年彼が取ったダブルプレーは実に109個にも及ぶ。

1925年、シーズン途中にカブスの監督兼任選手を務めたが、監督になっても彼の悪ふざけが収まった訳ではなかった。移動中の寝台車で、「俺が監督である間は、誰も寝てはならぬ」と言いながら、寝ている選手の顔に次々と氷水をかぶせて廻ったこともあった。ブルックリン・ロビンズに所属していた1926年のある日、彼は本拠地エベッツ・フィールドの前で、新聞配達の真似をして「モランビルが解雇された!」と大声で叫んでまわった。実際その翌日、彼は本当にロビンズを解雇されてしまう。

1927年にカージナルスと契約。翌1928年にカージナルスはナショナルリーグを制覇し、モランビルは実に14年ぶりのワールドシリーズ出場を果たした。その年のシーズンオフにブレーブスに移籍、7年間の在籍後、1935年に現役を引退した。実働年数は23年にも及び、1986年ピート・ローズに抜かれるまで、50年以上にわたってナショナルリーグ記録であった。

1931年には全米選抜軍の一員として、ルー・ゲーリッグレフティ・グローブらと共に来日。当時すでに40歳であったが、各地で軽快なプレイを披露し、股の間から送球する妙技まで披露した。

1954年1月5日にニューヨークで死去。同年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。選出は殿堂入り候補となって18年目のことで、これは記者選出としては最長である。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
















































O
P
S
1912 BSN 26101869182002081--5--9--114--.209.292.233.524
1913 14365957168141138217648251917--68--362--.247.330.308.638
1914 1566635867414423641917828--27--45--656--.246.306.326.632
1915 14957850951124236216543181223--45--265--.244.308.324.632
1916 155680604791421613419638321524--50--269--.235.296.325.620
1917 14261356169146191332004327--10--40--247--.260.312.357.668
1918 1142383120101430--0--4--00--.316.381.368.749
1919 13152948044128181051814312--12--36--123--.267.319.377.696
1920 134534493481311915118343141113--28--024--.266.305.371.676
1921 PIT 153686612901802512123270251223--47--338--.294.347.379.727
1922 1557466721151982615025463241312--61--243--.295.355.378.733
1923 1416335817816119912014114119--42--134--.277.327.346.673
1924 152639594621583320223771181411--35--053--.266.307.399.706
1925 CHC 753052663762103078236510--29--020--.233.308.293.602
1926 BRO 78266234325585073247--6--26--024--.235.312.312.624
1927 STL 9312907100800--0--2--02--.241.290.276.566
1928 112413366408814101125343--9--36--127--.240.310.342.652
1929 BSN 14663356087159261002055513--23--47--433--.284.344.366.710
1930 142628558851572682205439--17--48--523--.281.344.367.711
1931 145636562691462250178339--16--56--234--.260.329.317.646
1932 149635571671342040162374--15--46--328--.235.295.284.579
1933 143533478461041540127382--17--36--13417.218.274.266.539
1935 2371673102001250--1--3--034.149.186.179.365
通算:23年 2670112541007812562605380177283423884291112300--839--3975621.258.318.340.658
閉じる
  • 各年度の太字はリーグ最高

獲得タイトル・記録

監督としての戦績

エピソード

  • 通算本塁打28のうち、22本はランニングホームラン(インサイド・ザ・パーク・ホームラン)であった。というのも、ボストン時代のブレーブスの本拠地ブレーブス・フィールドは当初異常に広く、後に狭められたが、1910年代は両翼402フィート(約121m)、中堅440フィート(約132m)、右中間の最深部はもっとも広い時期には500フィート(約150m)近くもあったという。1920年代のベーブ・ルース時代の到来と共に、野球の華はホームランとなり、ブレーブス・フィールドも狭められ、モランビルも一時ブレーブスを放出されることとなった。

脚注

外部リンク

Wikiwand in your browser!

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.

Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.