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マルーシャ・チュラーイ(ウクライナ語:Маруся Чурай;1625年? - 1653年)は、フメリニツキーの乱時代のウクライナ歌手・詩人である。多数のウクライナ民謡の作者とされる。「ウクライナのサッフォー」とも呼ばれる。マリヤ・チュラーイ、マルーシャ・チュライーヴナとも。
マルーシャ・チュラーイ Маруся Чурай | |
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両親 | ホルディーイ・チュラーイ |
出生 | 1625年 |
生地 | ポルターヴァ、ウクライナ |
死去 | 1653年(28歳) |
没地 | 不明 |
伝承によれば、マルーシャ・チュラーイは1625年[1]にポルターヴァ町に生まれた。父のホルディーイ・チュラーイはコサックの百人隊隊長であったが、1638年にポーランド・リトアニア連合に対するコサックの叛乱に参加して捕虜となり、敵によってワルシャワで火刑された。
マルーシャが幼い頃より非常に美しかったので、男性からのプロポーズは後を絶たなかった。若いコサック、イヴァーン・イースクラはマルーシャのことを熱愛していたが、彼女に振られっぱなしであった。マルーシャ自身はポルターヴァのコサック旗手官の息子、フルィーツィ・ボブレーンコ[2]を愛し、後と密かに婚約した。
1648年にフメリニツキーの乱が勃発すると、フルィーツィはコサック軍とともに出陣し、戦いから帰ったら挙式すると約束した。マルーシャは彼を4年間を待ちつけた。しかし、4年後に帰陣したフルィーツィはマルーシャのことを忘れ、裕福なコサックの息女ハンナと恋に落ちた。裏切られたマルーシャは自殺をはかり、現地の呪い師を訪れて毒薬を買った。帰宅したところ、突然フルィーツィが現れ、マルーシャと会話し始めた。話途中で彼はマルーシャの薬をうっかり飲んで毒死した。
1652年の夏にポルターヴァ町の裁判は、殺人の疑いによりマルーシャに死刑の判決を言いわたした[3]。しかし、死刑実行の前にイヴァーン・イースクラがコサックの首領ボフダン・フメリニツキーからの赦免状を持参し、マルーシャは「父の功労、ならび自作の歌がために」恩赦された。
罪滅ぼしのためにマルーシャはキエフの聖地を行脚した[4]が、自分で恋人を殺した悲しみのあまりに1653年に28歳で死去した。
マルーシャ・チュラーイはウクライナ民謡の発展に大きく貢献した人物とされる。彼女の歌と生涯を描いた文学作品はウクライナの中学校・高等学校などで勉強の対象となっている。
『風が吹く』 | Віють вітри |
『行かないでよ、フルィーツィさん』 | Ой, не ходи, Грицю |
『フルィーツィさん、フルィーツィさん、働けば』 | Грицю, Грицю, до роботи |
『岸に鳩がいる』 | Сидить голуб на березі |
『コサックは口笛を吹いて』 | Засвистали козаченьки |
『山から車が駆け落ちた』 | Котилися вози з гори |
『恋人は山を歩いた』 | Ішов милий горонькою |
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