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マティアス・クラインハイスターカンプ(ドイツ語: Matthias Kleinheisterkamp, 1893年6月22日‐1945年4月29日)は、ナチス・ドイツ武装親衛隊の将軍。最終階級は親衛隊大将および武装親衛隊大将(SS-Obergruppenführer und General der Waffen-SS)。
エルバーフェルト出身。アビトゥーア合格後、ドイツ陸軍に入隊。第一次世界大戦では1914年から1915年にかけては西武戦線で戦い、1915年から1916年には東部戦線へ移され、1916年から1918年までは再度西部戦線で戦った。1918年に激しい負傷をし、第一級および第二級鉄十字章、また重傷勲章を受章した。
戦後、義勇軍(フライコール)に参加。ワイマール共和国下のドイツ軍にも入隊。1933年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が政権を取るとその親衛隊(SS)に入隊した。1935年には武装親衛隊の前身親衛隊特務部隊に配属され、パウル・ハウサーの副官となった。1937年4月20日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党。1938年に役職を解かれて親衛隊内部の裁判にかけられたが、赦免された。1938年12月にはミュンヘンへ送られて第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」に配属され、第3大隊の隊長となった。 1939年のポーランド侵攻にもこの立場にあり、ワルシャワからドイツ系市民を逃がす任務にあたった。1940年5月、第3SS装甲師団「トーテンコプフ」の第3歩兵連隊の隊長となった。師団長のテオドール・アイケとは折り合いが悪かったが、1941年7月にアイケが負傷した際には一時的に「トーテンコプフ」師団長となった。しかしアイケと不仲が続き、三ヶ月後には「ダス・ライヒ」へ戻り、東部戦線に従軍した。戦功をあげて騎士十字章を受章し、さらに1942年1月から4月にかけては「ダス・ライヒ」の師団長に任じられた。1942年4月中の短期間第6SS山岳師団「ノルト」の師団長に任じられたが、この際には任務を受けず、1942年6月になって改めて任命を受けた。1943年6月まで「ノルト」の指揮を執り、フィンランドでソ連軍との塹壕戦を指揮した。この功績でフィンランド政府から自由十字勲章を受章している。1943年5月から6月まで第7SS装甲軍団、1944年6月に第3SS装甲軍団、1944年8月から敗戦まで第6SS装甲軍団(1945年2月の一時期に第11SS装甲軍団の軍団長も兼務)の軍団長を務めた。
1945年4月28日にソ連軍に捕まった。翌日、収容先のベルリンの南東ハルベ近くで自決した。ベルリンはクラインハイスターカンプの死亡を知らず、彼に柏葉章を授章している。
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