マインツ大司教 (ドイツ語 : Erzbischof von Mainz )、またはマインツ選帝侯 (ドイツ語 : Kurfürst von Mainz または Mainzer Kurfürst)は、780 /82年 から1802年 まで神聖ローマ帝国 にあった、大きな力を持った司教領主(ドイツ語 : Fürstbischof )である。
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首都
マインツ
大司教・選帝侯
1774年 - 1802年
カール・テオドール・フォン・ダールベルク
変遷
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マインツ選帝侯領
Kurfürstentum Mainz
(国旗)
(国章)
カトリック教会 のヒエラルキーではマインツ大司教はドイツにおける最高位の聖職者 (primas Germaniae )であり、アルプス以北でのローマ教皇 の代理人であった。マインツ大司教座は司教座の中でも、ローマ大司教座 を除いて唯一、「聖」を付して「マインツ聖座 」(Sancta Sedes Moguntina)と呼ばれていたが[1] 、現在ではこのような呼び方はあまり一般的ではなくなってきている。
マインツ大司教区は神聖ローマ帝国に相当の領地を持っていた。その範囲はマインツ 近郊のライン川 両岸地帯、フランクフルト の上流までのマイン川 一帯(アシャッフェンブルク 含む)、ニーダーザクセン州 とテューリンゲン州 にまたがるアイヒスフェルトEichsfeld)地方、テューリンゲン州エアフルト 周辺に及んでいた。マインツ大司教はまた選帝侯 の1人であり、ドイツ大書記官長であり、実質的には1251年 から、そして1263年 から1803年 の間は一貫して、皇帝選挙 の投票場管理官でもあった。
マインツ大聖堂内にある大司教ペーター・フォン・アスペルト(在任:1306年 - 1320年)の墓碑。儀礼用の衣装であり、カズラ の上にパリウム をつけている。足下の人物は彼が戴冠した3人の王(ボヘミア王ヨハン 、ハインリヒ7世 、ルートヴィヒ4世 )である。
マインツ は「モグンツィアクム」 と呼ばれたローマ属州 の都市であり、ローマ帝国 時代に司教座 が置かれた。4世紀 以前の初期の司教については伝説の域を出ないものであるが、最初の司教はクレスケンスと言われている。史実として確認できる最初のマインツ司教は、343年のマルティヌスである。
747年に聖ボニファティウス が着任してから重要性が高まる。ボニファティウスはマインツに来る前に大司教を務めていたが、マインツが大司教座 に昇格するのは、次の司教ルルス の時代、780年から782年ごろであった。
1802年、マインツは大司教座の地位を失い、翌年の帝国代表者会議主要決議 によって、選帝侯の地位はカール・テオドール・フォン・ダールベルク とともにレーゲンスブルク 大司教へと移った。ライン川左岸はフランス第一共和政 の領地となり、フランクルト下流のマイン川右岸はヘッセン=ダルムシュタット方伯 とナッサウ公国 に、アイヒスフェルトとエアフルトはプロイセン王国 に渡った。アシャッフェンブルク 一帯はダールベルクの所領に留まり、アシャッフェンブルク公国を形成した。1810年のフランクフルト大公国 成立により、アシャッフェンブルクはフランクフルト 、ヴェッツラー 、ハーナウ 、フルダ と共にフランクフルト大公国に編入された。1813年、ダールベルクは大司教を除く全ての職を辞し、1815年、ウィーン会議 によりダールベルクの領地はバイエルン王国 とヘッセン選帝侯国 、ヘッセン大公国 およびフランクフルト 自由都市の間で分割された。
現在のマインツ司教座(ドイツ語 : Bistum Mainz )は1802年にフランス帝国 領に置かれ、1814年には支配域をヘッセン=ダルムシュタット まで拡大した。以来、2人の枢機卿 を擁し、さまざまなコンコルダート によって後任司教を選ぶ参事会 の中世以来の伝統を維持している。
ラバヌス・マウルス・マグネンティウス (在位:848年 - 856年)
カール(在位:856年 - 863年) - アクィタニア王ピピン1世 の子
ハットー(在位:891年 - 913年) - アレマニアの貴族の出、ライヒェナウ修道院長[2]
ヘリガー(在位:913年 - 927年) - 東フランク王ハインリヒ1世 は即位時ヘリガーによる塗油を拒絶
フリードリヒ(? - 954年)(在位:937年 - 954年) - シュヴァーベン大公リウドルフ に与し、皇帝オットー1世 に対する反乱に参加。
ヴィルヘルム (在位:954年 - 968年) - 皇帝オットー1世 庶子
リウトポルト・フォン・バーベンベルク(? - 1059年)(在位:1051年 - 1059年) - オーストリア辺境伯レオポルト1世 子
アダルベルト1世(在位:1111年 - 1137年)
ルドルフ・フォン・ツェーリンゲン(対立司教、在位:1160年 - 1161年) - ツェーリンゲン公コンラート1世子
コンラート・フォン・ヴィッテルスバッハ(? - 1200年)(在位:1161年 - 1165年) - バイエルン公オットー1世 弟
ジークフリート3世・フォン・エップシュタイン(在位:1230年 - 1249年) - ハインリヒ・ラスペ およびホラント伯ヴィルヘルムを対立王 に推す - 聖エリーザベト の列聖のために力を尽くす - 在位中に大聖堂の献堂式が催される[3]
ヴェルナー・フォン・エップシュタイン(1225年 - 1284年)(在位:1259年 – 1284年) - ルドルフ1世 をローマ王に推薦
ペーター・フォン・アスペルト(在位:1306年 - 1320年) - ルートヴィヒ4世 のローマ王選出を支持 - 詩人 フラウエンロープ 晩年のパトロン
マティアス・フォン・ブーヒェッグ(在位:1321年 - 1328年) - ローゼンタール を建設
ゲルラッハ・フォン・ナッサウ(在位;1346/53年 - 1371年) - ナッサウ伯ゲルラッハ1世子
ジャン・ド・リュクサンブール (在位:1371年 - 1373年)
ルートヴィヒ・フォン・ヴェッティン(1340年 - 1382年)(在位:1374年 - 1381年) - マイセン辺境伯フリードリヒ2世 子
アドルフ1世・フォン・ナッサウ(在位:1381年 - 1390年) - ナッサウ=ヴィースバーデン=イトシュタイン伯アドルフ1世子
ヨハン2世・フォン・ナッサウ(在位:1397年 - 1419年) - ナッサウ=ヴィースバーデン=イトシュタイン伯アドルフ1世子
アドルフ2世・フォン・ナッサウ(在位:1461年 - 1475年) - ナッサウ=ヴィースバーデン=イトシュタイン伯アドルフ2世子
アーダルベルト・フォン・ザクセン(1467年 - 1484年)(在位:1482年 - 1484年) - ザクセン選帝侯エルンスト 子
ベルトルト・フォン・ヘンネブルク(Berthold von Henneberg)(1442年 - 1504年)(在位:1484年 - 1504年)- 主要諸侯を中央の政治決定に継続的に参加させ公共の秩序を確立することを目指す「帝国改造」をリード[4]
ウリエル・フォン・ゲミンゲン(Uriel von Geminngen)(1468年 - 1514年)(在位:1508年 – 1514年)- アシャッフェンブルク城(Aschaffenburg)の工事のために、マティアス・グリューネヴァルト を宮廷画家として雇用
アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク (1490-1545)(1490年 - 1545年)(在位:1514年 - 1545年) - ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィーツェロ 子 - 一時期マティアス・グリューネヴァルト が彼に仕えた。
ヴォルフガング・フォン・ダルベルク (英語版 ) (在位:1582年 - 1601年) - ヘッセン=カッセル方伯 ヴィルヘルム4世 とメルラウアー協定(Merlauer Vertrag )を結んだ。
ヨハン・アダム・フォン・ビッケン (在位:1601年 - 1604年)
ヨハン・フィリップ・フォン・シェーンボルン (英語版 ) (在位:1647年 - 1673年)
フランツ・ルートヴィヒ・フォン・デア・プファルツ (在位:1729年 - 1732年)
ヨーハン・フリードリヒ・カール・フォン・オスタイン (英語版 ) (在位:1743年 - 1763年)
フリードリヒ・カール・ヨーゼフ・フォン・エルタール(Friedrich Karl Joseph von Erthal;1774-1802)‐モーツァルト は1790年10月に選帝侯の邸宅で演奏をしている[5] 。
カール・テオドール・フォン・ダールベルク (在位:1802年 - 1803年)
成瀬 治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社 、1997年、p. 95 マインツ大聖堂最古の墓碑は、2人の王に加冠するジークフリート3世の像である。Alexander Freiherr von Reitzenstein: Deutsche Plastik der Früh- und Hochgotik . Karl Robert Langewiesche Nachfolger Hans Köster, Königstein im Taunus, Germany, 1962. S. 37. - Lexikon des Mittelalters . Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7 ), Sp. 1867 (Beitrag von A. Gerlich).