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オランダ西部の地域 ウィキペディアから
ホラント (Holland) は、オランダ西部の地域である。
オランダ語の Holtland(森の地)[2][3]、あるいは間違ってHolland(窪地)[3]に由来する。
北ネーデルラント(オランダ)の中枢であることから、いくつかの言語ではオランダの別名となった。日本語の「オランダ」もその1つで、直接にはポルトガル語の Holanda に由来し、これはポルトガル語ではオランダの通称である。
この地域はかつてはフリースラントの一部だったが、10世紀ごろ、神聖ローマ帝国によりフリースラントから分離され、ホラント伯領 (Graafschap Holland) となった。記録に残る最初のホラント伯は、ティルク1世(在位 916年–939年)である。
1299年、ホラント伯家は断絶し、エノー伯がホラント伯を兼ねた。
1432年、ブルゴーニュ領ネーデルラントの一部となった。
1482年、ネーデルラント全域(現ベルギー、現ルクセンブルクを含む)が、オーストリアのハプスブルク家領となった。ホラント伯領は、ネーデルラント17州の1州となり、これ以後はホラント州と訳すこともある(原語は同じ)。
1581年、北ネーデルラントのホラントなど7州(ほぼ現オランダ)が、ネーデルラント連邦共和国として独立した。
1795年、フランス革命戦争によりネーデルラント連邦共和国は崩壊し、バタヴィア共和国が建国された。7州 (graafschap) は解体され、自治権を制限された8県 (departement) に再編された。ホラントは複数県に分割され、およそ、北ホラント(現北ホラント州)はアムステル県 (Departement van de Amstel) とテセル県 (Departement van Texel)、南ホラント(現南ホラント州)はデルフ県 (Departement van de Delf) とスヘルデ・エン・マース県 (Departement van de Schelde en Maas) の一部になった。
1802年、県が再編され、ホラント全体がホラント県 (Departement Holland) になった。
1806年、ナポレオンの弟ルイを王とするホラント王国が成立した。版図は(北)ネーデルラントだが、国名はホラントから採られている。
1807年、県がさらに再編され、およそ、北ホラントはアムステラント県 (Departement Amstelland)、南ホラントはマースラント県 (Departement Maasland) になった。
1810年、ホラント王国はフランス帝国に併合された。およそ、北ホラントはゾイデルゼー県 (Zuiderzee)、南ホラントはマース県 (Monden van de Maas) になった。
1815年、フランス帝国の崩壊により、ネーデルラント連合王国が独立回復した。ホラント全域が、州 (provincie) の1つのホラント州 (Holland) となった。ただし、州 (provincie) は、かつての州 (graafschap) のような、連邦国家の構成国としての自治権はない。
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