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南伝の上座部仏教に伝わるパーリ語で書かれた仏典 ウィキペディアから
パーリ仏典(パーリ語仏典、パーリ聖典、Pali Canon)、あるいはパーリ三蔵(巴: Tipiṭaka, ティピタカ、三蔵のこと)は、南伝の上座部仏教に伝わるパーリ語で書かれた仏典である。北伝の大乗仏教に伝わる漢語・チベット語の仏典と並ぶ三大仏典群の1つ。パーリ経典(パーリ語経典)とも呼ばれることがある。
日本でも戦前に輸入・翻訳され、漢訳大蔵経(北伝大蔵経)、チベット大蔵経に対して、『南伝大蔵経』『パーリ大蔵経』(パーリ語大蔵経)などとしても知られる。
パーリ仏典は、部派仏教時代に使われていたプラークリット(俗語)の1つであり、(釈迦が生きた北東インドのマガダ地方の方言ではなく)西インド系[1]の、より具体的にはウッジャイン周辺で用いられたピシャーチャ語の一種であると推定されるパーリ語で書かれている[2]。第1回-第3回の結集や、後代における仏典のサンスクリット化からも分かる通り、仏典はその歴史の過程で編纂・増広・翻訳が繰り返されており、パーリ仏典はその歴史過程における、インド部派仏教時代の形態を強く留めている、現存する唯一の仏典だと言える。
上座部仏教では伝統的に、この仏典の言語であるパーリ語が、釈迦が用いたいわゆるマガダ語であると信じられてきたが、学問的知見が広まった今日においてはそうした主張は弱まってきている。ただし、マガダ語とパーリ語は、実際には言語的にそれほど相違しておらず、語彙をほぼ共有し、文法上の差異もさほどないなど、むしろかなり近似的な関係にあったと推定されている[3]。
なお、「パーリ」とは聖典の意であり[1]、各経典に関して「〜聖典」(-pāḷi)という表現もよく用いられる。パーリ語という言語名も「聖典(パーリ)の言葉」「聖典語」というところから付けられた通称に過ぎない。
現在、スリランカ・ミャンマー・タイ等の上座部仏教文化圏で流通しているパーリ仏典は、分別説部(赤銅鍱部)と呼ばれる上座部一派の流れをくむ、スリランカ仏教大寺派に起源を持つものが、12世紀以降に広まったものであり、瑣末な差異こそあれ、基本的に同一のテキストである。
近代以降は、1881年にロンドンに設立されたパーリ聖典協会(Pali Text Society, PTS)の校訂出版本[注釈 1]や、1954年にビルマ(ミャンマー)のヤンゴン(ラングーン)で行われた第6回結集によって編纂された聖典テキスト(第六回結集本)[注釈 2]等が、共通の底本となっている。
パーリ語仏典の写本は、近代以前のものはほとんど現存していない。
山中行雄によれば「東南アジア地域においては,現存写本の数自体が膨大である一方,高温多湿の気候,写本の保存体制の不備等から,古写本の保存が極めて困難で,15世紀以前の写本を発見することは,かなり稀である」[4]。
下田正弘は「K. R.ノーマンおよびO.フォン=ヒニューバによれば,現在利用可能なパーリ語の写本はほとんどが18世紀から19世紀という,きわめて近年のものである(von Hinüber 1983, 78; 1994, 188; Geiger and Norman 1994, XXV).しかもこれらの写本がどのような過程をたどって現在に至ったかほとんど情報がないため,近代以前の足跡は写本自身から知りえない.この点,漢訳の諸経典が古い時代―『道安録』を起点とするなら四世紀以降―より翻訳状況の記録とともに継承されていることに比すると,その歴史資料としての価値にはかなりの限界がある.」[5]と述べる。
パーリ仏典の古写本が少ないことは、学術的な研究上のネックにはなるものの、信仰の対象としての価値を減ずるものではない。そもそも上座部仏教の教義では、聖典の本質は、書写された経巻そのものにあるのではなく、それが有情によって記憶・実践・暗誦されていることにこそある(清水2018[6]pp.26-27)とされてきたことにも注意すべきである。
ちなみに、パーリ語以外の現存の仏教古写本の情況を見ると、ガンダーラ語仏教写本は1世紀から、漢訳写本は釈道安を起点とするなら4世紀から、サンスクリット語写本は6世紀から[7]、と、紀元1千年紀の古写本が存在する。「写経」や「納経」の功徳を重視する大乗仏教は古写本が多く残っている。日本に限っても、奈良時代に書写された仏教経典が一千数百巻、また、その奈良時代のものから転写したと想定される平安時代から鎌倉時代の古写経が一万巻以上も現存しており[8]、パーリ仏典の古写本の少なさと著しい対比をなす。
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律は中国やチベットにそれぞれ伝わっているものとは異なる独自のもので、通称『パーリ律』と呼ばれる。
漢訳仏典、チベット語訳仏典と同じく、律蔵(Vinaya Piṭaka(ヴィナヤ・ピタカ))、経蔵(Sutta Piṭaka(スッタ・ピタカ))、論蔵(Abhidhamma Piṭaka(アビダンマ・ピタカ))の三蔵(Tipiṭaka(ティピタカ))から成る。順序としては、律蔵が軽視されて後回しにされる漢訳とは異なり、チベット仏典と同じく、律蔵が最初に来る。
また、パーリ仏典には、
と呼ばれる注釈文献群が付属しており、パーリ仏典の内容解釈に際して参照される。
ちなみに、下掲する日本語訳の中では、大蔵出版の片山一良訳 『パーリ仏典』シリーズが、これら注釈文献を参照した日本語訳として知られている[10]。
南伝アビダンマの綱要書である『アビダンマッタサンガハ』はティーカー(復注釈書)に含まれる。
その他の付属・関連文献(Anya アニヤと表現される)としては、ブッダゴーサの『清浄道論』や、レディ・サヤドーの文献等がある。
南伝大蔵経 | ||
---|---|---|
編集者 | 高楠順次郎 | |
訳者 | 上田天瑞 | |
発行日 | 1936年1月8日 | |
発行元 | 大蔵出版 | |
ジャンル | 仏教聖典 | |
国 | 日本 | |
言語 | 日本語 | |
形態 | 聖典、仏典 | |
公式サイト | インターネットアーカイブ: nandendaizokyovol01 | |
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パーリ語仏典の日本語翻訳(全訳)は、1935年から1941年にかけて南伝大蔵経全65巻70冊として刊行・出版された。パーリ聖典協会(Pali Text Society, PTS)の校訂出版本を底本とし、漢訳仏典の集成である『大正新脩大蔵経』(1923年-1934年、全88巻)を手がけた高楠順次郎らによってなされた[11]。
国立国会図書館は、「近代デジタルライブラリー」事業の一環として、2007年7月からは『大正新脩大蔵経』の大正期刊行分を、2013年2月からは『大正新脩大蔵経』の昭和期刊行分と『南伝大蔵経』を、著作権切れの刊行物としてインターネット公開を始めたが、2008年からこれらを出版物として扱っている大蔵出版から抗議を受けるようになった。それに対して国立国会図書館は、2013年5-6月より、それらのインターネット公開を一時停止し、抗議内容を検討した。
2014年1月、半年間の検討期間を経て、国立国会図書館は、『大正新脩大蔵経』のインターネット公開は再開するが、『南伝大蔵経』は当分の間は館内公開に留め、インターネット公開は行わないと発表した[12]。この「南伝大蔵経問題」の一連の経緯は、図書館の「無料原則」「民業圧迫の回避」や著作権問題と合わせて様々な議論を巻き起こした[13]。
国立国会図書館は、この件における経緯と対応について、「インターネット提供に対する出版社の申出への対応について」という文書をインターネット上に発表している[14]。
経蔵長部 全訳
サーマンニャパラ経(沙門果経)
マハーパリニッバーナ経(大般涅槃経)
経蔵中部 全訳
マハー(大)ハッティパドーパマ経(象跡喩大経)
チューラ(小)マールキヤ経(摩羅迦小経)
アングリマーラ経(鴦掘摩経)
アッサラーヤナ経(阿摂惒経)
バフダートゥカ経(多界経)
経蔵相応部 全訳
有偈篇 全訳
デーヴァター相応(諸天相応)
ブラフマ相応(梵天相応)
サッチャ相応(諦相応)
経蔵小部 全訳
ダンマパダ(法句経)
スッタニパータ(経集)
テーラガーター(長老偈経)
テーリーガーター(長老尼偈経)
ジャータカ(本生経)
ミリンダパンハ(弥蘭陀王問経)
ペータヴァットゥ(餓鬼事)
ヴィマーナヴァットゥ(天宮事)
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