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ニコライ・ヤコヴレヴィチ・ミャスコフスキー(ロシア語: Никола́й Я́ковлевич Мяско́вский, ラテン文字転写: Nikolai Yakovlevich Myaskovskii, 1881年4月20日(ユリウス暦では4月8日) - 1950年8月8日)は、ロシアの作曲家である。ベートーヴェン以降の作曲家としてはきわめて異例の27曲もの交響曲を作曲したことで有名。これらの作品は最近まであまり日の目を見ることは無かったが、近年再評価が進んでいる。
ワルシャワ近郊のノルヴォゲオルギイェフスクに生まれ、10代でサンクトペテルブルクに移る。軍人の家庭に生まれながら音楽の道に進むように励まされていたものの、軍務を退役してからようやく1906年にペテルブルク音楽院に進んだ。そこでプロコフィエフと同級となり、生涯にわたる親交を結ぶ。
プロコフィエフとは教官リャードフに対する嫌悪感で意気投合し、ミャスコフスキーはリャードフがグリーグを嫌っていたというので、在学中に作曲した《弦楽四重奏曲第3番》の終楽章に、グリーグの主題による変奏曲を書いている(《弦楽四重奏曲第3番》の番号は出版社が付けたので、3番目に完成された四重奏曲というわけではない)。
音楽院在籍中にプロコフィエフと1度ならず共作を行い、そのうちほとんど散逸した交響曲の断片は、後にプロコフィエフの《ピアノ・ソナタ第4番》の緩徐楽章の素材となった。また、ミャスコフスキーやプロコフィエフ作品(ピアノ・ソナタ第3番と第4番)に見られる「古いノートから」と題された楽曲は、この時期にまで素材をさかのぼることができる。ミャスコフスキーは1908年に《交響曲第1番ハ短調》作品3(1921年改訂)を書き上げ、音楽院の卒業制作とした。1914年の《交響曲第3番》はスクリャービンに影響されている。特にこの中の葬送行進曲には、ミャスコフスキーには珍しい要素をいくつか見出すことができる。
第一次世界大戦に従軍し、大戦中の困窮によってシェルショック(戦争神経症の一種)に陥るが、快癒する間に2つの対照的な作品を手懸けた。それが《交響曲第4番ホ短調》作品17と《交響曲第5番ニ長調》作品18である。それからの数年間は、発展と転換の時期であった。父親は1918年または1919年の冬、列車を待っている間に元皇帝派一派の一人として赤軍兵士に射殺されたが[1]、ミャスコフスキー自身は1917年から1921年まで赤軍に仕え、後にモスクワ音楽院の教員に任用され、ソ連作曲家同盟の会員にも選ばれた。
1921年から1933年までの間は、ミャスコフスキーが作曲に対して最も実験的だった時期であり、《交響曲 第10番 ヘ短調》や《交響曲 第13番》、《ピアノ・ソナタ第4番》、《弦楽四重奏曲 第1番》のほか、和声法が非常に大きく拡張された、ピアノのためのいくつかの組曲のような作品が完成された。おそらく最も実験的だったのは、中でも《交響曲 第13番》で、これは単一の、おぼろげで風変わりな楽章で作曲され、フガートで締め括られる。また、作曲者自身がアメリカ初演を行なった唯一の作品でもあった。
ちなみに、《第1番》から《第4番》までの弦楽四重奏曲は、作品33と番号付けされているが、《第3番 ニ短調》と《第4番 ヘ短調》は、1900年代末期の作品を1930年代半ばに改訂したものであり、最初の2つと違って新作というわけではない。したがってこれら4曲の作曲様式はかなり異なっている。いずれにせよこれらの作品が、非常に高水準の職人芸に支えられて出来ていることは間違いない。
《交響曲 第6番》(1921年 - 1923年作曲)は唯一の合唱交響曲であり、27ある交響曲のうちで最長の作品である。1947年に改訂され、こんにち通常はこの改訂版によって演奏・録音されることが多い。終楽章にはいくつかの引用楽句が認められ、なかでもグレゴリオ聖歌《怒りの日》とフランスの革命歌の旋律が目立っている。
1933年以降の数年間は、もっぱら実験的様式からの後退を示している。これは、この時期にスターリンの全体主義体制の下、「社会主義リアリズム」が国家の公式な芸術政策の方針として推進されたことが大きく影響している。しかしながら、職人的な技術の見事さはそれ以降も健在であった。この時期よりミャスコフスキーは、堅実な技法に支えられて新ロマン主義に傾くようになる。オイストラフに献呈された《ヴァイオリン協奏曲》はこの時期の作品である。ミャスコフスキーはこのほかに、ロストロポーヴィチの愛奏した《チェロ協奏曲》を作曲しており、さらに《抒情的小協奏曲》作品32を協奏曲の中に数えるなら、しめて3曲の協奏曲を作曲したことになる。この時期の、ヴァイオリン協奏曲を除いてもう一つの妥協のない作品は、単一楽章の《交響曲 第21番 嬰ヘ短調》作品51である。1940年に作曲され、同年モートン・グールドの指揮によって録音された。これは簡潔にして最も叙情的な作品で、1920年代とは大きくかけ離れた和声言語が認められる。
翌1941年の《交響曲 第22番 ロ短調「バラード」》は、一部は第二次世界大戦の最初の数年間に着想されたのかもしれない。また同年には、プロコフィエフやハチャトゥリアンらとともに、カバルディノ=バルカリア地方に疎開している。こういうわけで、プロコフィエフの《弦楽四重奏曲 第2番》やミャスコフスキー自身の《交響曲 第23番》および《弦楽四重奏曲第7番》に、揃ってカバルダ民謡が利用されたのである。
この頃に作曲されたソナタ楽章を含む作品群(交響曲や四重奏曲など)は、《交響曲 第24番》、《ピアノのためのソナチネ》、《弦楽四重奏曲 第9番》がある。これらは響きや作曲様式においてロマン主義的であり、その直接の影響は和声法や展開に如実に現れている。最後の2つの弦楽四重奏曲に認められるように、ミャスコフスキーは、じりじりとした神経症的なスケルツォを、臆することなく書いている(最後の出版作品となった《弦楽四重奏曲第13番》のスケルツォは変幻自在で、ほとんどキアロスクーロ画法のように対比付けられている)。《チェロ協奏曲》やロストロポーヴィチに献呈された《チェロ・ソナタ第2番》の場合に当てはまるように、全般的に切り詰められた手段によって、直接的でかなり濃密な表現が可能となっている。そこでは、スクリャービンやシェーンベルクが発想源でありえたような初期作品と同等の、実験的なものを喚起すべくもない。
このような後期様式に何かしらの一長一短があるのもやむを得まい。無論このようなことになったのは、部分的にであれ全体的にであれ、「ジダーノフ批判」のような攻撃をひらりとかわす必要があったからであろう。勿論かわしようのあるはずもなく、もう一度攻撃された末、ようやく没年に、それも没後に名誉回復された。ジダーノフ批判後の最晩年の作品はそれ以前にも増して保守的、復古的なものとならざるを得なかった。
1950年に逝去。40年もの長きにわたって出版された、作品番号にして87の楽曲を後世に残した。生前6度にわたってスターリン賞を受賞しており、この賞の獲得回数においてミャスコフスキーをしのぐ作曲家はいない。
ミャスコフスキーは多くの門弟を抱えた。1920年代からの20年間にミャスコフスキーの門人となった作曲家は、アラム・ハチャトゥリアンやロディオン・シチェドリン、ドミトリー・カバレフスキー、ヴィッサリオン・シェバリーン、さらに、アレクサンドル・ロクシーンやボリス・チャイコフスキー、エフゲーニー・ゴルーベフらがいる。ゴルーベフは教師で多産な作曲家であり、その門下にアルフレート・シュニトケがいる。
演奏や録音の機会にあまり恵まれているとは言い難いが、交響曲第27番や吹奏楽のための交響曲第19番、チェロ・ソナタは比較的多い。ミャスコフスキーを敬愛していた指揮者としてエフゲニー・スヴェトラーノフが挙げられる。まだ現在のように再評価が進んでいなかった時期から彼の作品を積極的に取り上げていた。そして2001年に、現在唯一となる交響曲全集をリリースしている。その他、交響曲第21番は1940年代からよく知られており、ユージン・オーマンディらにしばしば演奏されている。
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