トニー・ピューリス

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トニー・ピューリス

アンソニー・リチャード "トニー" ピューリス英語:Anthony Richard "Tony" Pulis、1958年1月16日 - )は、ウェールズ出身の元サッカー選手。現サッカー指導者。19歳でFAコーチングライセンスを取得し、21歳というプロサッカー選手としては最年少でUEFAのAライセンスを取得した者の一人である[1]

概要 トニー・ピューリス, 名前 ...
トニー・ピューリス
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2014年
名前
本名 アンソニー・リチャード・ピューリス
Anthony Richard Pulis
ラテン文字 Tony PULIS
基本情報
国籍 ウェールズ
生年月日 (1958-01-16) 1958年1月16日(66歳)
出身地 ニューポート
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1975-1981 ブリストル・ローヴァーズ 85 (3)
1981-1982 ハッピー・ヴァレー 13 (0)
1982-1984 ブリストル・ローヴァーズ 45 (2)
1984-1986 ニューポート・カウンティ 77 (0)
1986-1989 ボーンマス 72 (3)
1989-1990 ジリンガム 16 (0)
1990-1992 ボーンマス 16 (1)
通算 326 (9)
監督歴
1992-1994 ボーンマス
1995-1999 ジリンガム
1999-2000 ブリストル・シティ
2000 ポーツマス
2002-2005 ストーク・シティ
2005-2006 プリマス・アーガイル
2006-2013 ストーク・シティ
2013-2014 クリスタル・パレス
2015-2017 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン
2017-2019 ミドルズブラ
2020 シェフィールド・ウェンズデイ
1. 国内リーグ戦に限る。
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指導者としての経歴は、ボーンマスハリー・レドナップの下で選手兼アシスタントコーチとして始まり、レドナップがクラブを去ってからは監督を務めた。ピューリスの監督としてのこれまでの最大の功績は、2007-08シーズンにストーク・シティフットボールリーグ・チャンピオンシップで2位に導き、プレミアリーグ昇格を果たしたことである。

ピューリスは限られた予算でチームを上手く作り結果を残すことに実績があり、これまでクラブを降格させた経験はない。その守備的でロングボールを多用する戦術を非難されることもあるが、ピューリスは自身のスタイルを貫いている[2]

監督経歴

要約
視点

ボーンマス

サッカー選手としてのキャリアは、アシスタントコーチを兼任していたボーンマスで終焉を迎えた。選手としては、16試合に出場し、1ゴールを挙げた。ハリー・レドナップがプレミアリーグのウェストハム・ユナイテッドの監督に就任したことに伴い、1992年に監督に昇格した。ボーンマスでは2シーズン監督を務めた。

ジリンガム

ジリンガムでは4シーズン監督を務め、就任した最初のシーズンにチームをディヴィジョン3(現在のフットボールリーグ2)昇格に導き、後にリーグ1昇格を果たすことになるチームの基盤を築いた。1999年のリーグ2のプレイオフ決勝では、試合終了2分前までロバート・テイラーカール・アサバのゴールでマンチェスター・シティに対して2-0でリードしていたが、インジュリー・タイムに同点に追いつかれ、PK戦の末に1-3で敗れた[3]。敗戦後には、著しい不正行為があったとクラブ間で論争が起こったが、その間にピューリスは監督を解任された。ピューリスは後に、ジリンガムに対して未払いの給料400,000ポンドの支払いを求めて訴訟を起こしたが[4]、2001年に75,000ポンドで示談が成立した[5]

ブリストル・シティ

ピューリスは1999-2000シーズン開幕前の1999年7月に、ブリストル・シティの監督に就任した[6]。長い間ライバル関係にあるブリストル・ローヴァーズに所属していたことがあるが、ピューリスはオファーを受け入れたのであった。スティーヴ・ジョーンズや前ローヴァーズのピーター・ビードルなどの大きな契約を結んだが、ファンの人気は低く、ポーツマスの監督就任の噂が持ち上がってからは、ホームのファンはピューリスが去るように大合唱をした[7]。ピューリスは間もなく、ミラン・マンダリッチに買収されたポーツマスに移った。在籍期間は、わずか6ヶ月であった。

7年後にストーク・シティの監督としてアシュトン・ゲイトに戻ってきたが、ブリストル・シティのファンはブーイングで迎えた。試合後に、「青い服(青はブリストル・ローヴァーズのチームカラー)を着てチームを率いたのは良い気分だった。」と、述べたことは、さらにファンの感情を逆なでした[8]

ポーツマス

2000年1月にブリストル・ローヴァーズを去り、ポーツマスの監督に就任した[9][10]。2000年10月にスティーヴ・クラリッジに監督が代わるまで、10ヶ月間フラットン・パークに留まったが、成功を収めることは出来なかった[11][12]

ストーク・シティ

2年間の失業期間を経て、2002-03シーズン初めに監督を辞任したスティーヴ・コッテリルの後任として、2002年11月にストーク・シティの監督に就いた[13]。ストーク・シティは低迷しており、一年後のディヴィジョン2への降格は必至と見られていたが、ストライカーのアデ・アキンバイ[14]、ゴールキーパーのマーク・クロスリー[15]をそれぞれクリスタル・パレスミドルズブラからレンタルで獲得したことでチームの状況は改善された。ストークは、ブリタニア・スタジアムで行われた最終戦でレディングに1-0で勝利し、降格を免れた。アキンバイはその試合で唯一の得点を決めた[16]。翌2003-04シーズンは、ピューリスはストークを11位に押し上げた[17]

2004-05シーズン中には、クラブのチェアマンのグンナール・ギスラソンとの間に軋轢が生じた。ピューリスはクラブの選手獲得の資金不足に失望し、シーズン開幕前に獲得した選手は、自由契約で獲得したデイヴ・ブラマースティーヴ・シモンセンだけであった。しかし、2005年1月には息子のアンソニー・ピューリスルイス・バクストンをメンバーに加えた[18][19]。ピューリスとアイスランド人のオーナーとの意見の相違は、2005年6月29日に決着を迎えることになった。「外国の移籍市場を開拓することが出来ない」として、ピューリスは解任された[20]。彼の解任に続いて、クラブはアデ・アキンバイチャンピオンシップのライバルであるバーンリーへ放出したが、ピューリスは、「代えの利かないチームの得点源を売却してしまった」と、その決定を嘆いた[21]。解任決定の翌日に、オランダ人ヨハン・ボスカンプがピューリスの後任に就くことが発表された[22]

プリマス・アーガイル

チャンピオンシップのプリマス・アーガイルの監督に就任し[23]、ピューリスは低迷するクラブを何とか立て直すことに成功した。好転するきっかけとなったのは、ウェストハム・ユナイテッドから、エリオット・ウォードをレンタルで[24]リリアン・ナリスを完全移籍でシェフィールド・ユナイテッドから獲得したことであった[25]。プリマス・アーガイルは最終的に14位でシーズンを終えた[26]

ストーク・シティでの2度目の挑戦

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ストークで監督を務めるピューリス(2010年)。通常ピューリスはこのような服装で指揮を執る。

ピーター・コーツがクラブを買収し、ヨハン・ボスカンプの後任を探していたストークは、2006年5月にピューリスに監督就任のオファーを出した[27]。プリマスはこの申し出を断ったと報道されていたが[28]2006年6月14日にピューリスがストーク・シティの監督に就任すると発表された。

2006-07シーズンを前に、ダニー・ヒギンボザム[29]リカルド・フラー[30]ヴァンサン・ペリカールを獲得した[31]。最も効果的だった補強は、リー・ヘンドリーアストン・ヴィラからレンタルで加えたことであった[32][33]

ヘンドリーの獲得と時を同じくして(サリフ・ディアオ[34]アンディ・グリフィン[35]ロリー・デラップ[36]も同様にレンタルで加入した)、スタートで躓いたポッターズは調子を取り戻した[37]。ストークは1月の移籍市場が開く前に、4位まで上昇していた[38]

5試合で11ポイントを獲得し、4月には月間最優秀監督に選出された[39]。その無敗期間中にチームは6位のサウサンプトンと勝点で並び、7位に着けていたが[40]、最終戦でQPRに1-1で引き分け[41]チャンピオンシップは8位でシーズンを終えることになった[42]。2007-08シーズンを前に、ピューリスは数人のクラブの中心であった選手を放出し、キャプテンであったダニー・ヒギンボサムは、300万ポンドでサンダランドへ移籍した[43]。しかし、ピューリスはレンタル移籍を活用し、マンチェスター・ユナイテッドからライアン・ショウクロスなどの5人の選手を獲得し[44]、数名の選手とは1月の移籍市場において完全移籍で契約を結んだ。

ピューリスは、シーズン最終日にプレミアリーグ昇格を決めた。ストーク・シティにとっては23年振りのトップリーグ挑戦となった。トップリーグでの戦いを踏まえて、ピューリスはチームを強化する必要があると話していたが、それと同時にリーグの上位を狙うことは出来ないことを理解していた。ストークの夏の最大の契約は、デイヴ・キットソンを降格が決定したレディングから、550万ポンドで獲得したものであった。キットソンに続いて、セイ・オロフィンジャナウルヴァーハンプトン・ワンダラーズから300万ポンド、アブドゥライ・ファイェニューカッスル・ユナイテッドから225万ポンド、アムディ・ファイェチャールトン・アスレティックから獲得(移籍金の額は非公表)し、アンドリュー・デイヴィスサウサンプトンから120万ポンド、イブラヒマ・ソンコをレディングから200万ポンド、ダニー・ヒギンボサムをサンダランドから買い戻した。また、息子のアンソニー・ピューリス、ストライカーのジョン・パーキンを移籍させる用意も出来ていた。チームは好スタートを切ったが、シーズン中盤に失速し、降格候補の一つであると見られていたが、1月にシェフィールド・ユナイテッドから、ジェームズ・ビーティーウェストハム・ユナイテッドから、マシュー・エザリントンが加入したことをきっかけにチームは立ち直り、特に350万ポンドで加入したビーティーは、シーズン最高の契約の一つであると賞賛された[45]。3月までは降格圏に沈んでいたが、そこから好調を維持し、2009年5月9日ハル・シティに2-1で勝利し、プレミアリーグ残留を果たした。2013年5月、ストークを退団。

クリスタル・パレス

2013年11月に成績不振でイアン・ホロウェイを解任したクリスタル・パレスと契約。2014-2015シーズンも続投すると思われたものの、突如、開幕戦2日前の2014年8月14日に監督の座から降りた。

ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン

2015年1月、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンの監督に就任した[46]。2017年11月20日、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンの監督から解任されたことが発表された。[47]

ミドルズブラ

2017年12月26日、ミドルズブラFCの監督に就任した[48]。2018-19シーズン終了後に退任した[49]

シェフィールド・ウェンズデイ

2020年11月13日、シェフィールド・ウェンズデイFCの監督に就任した[50]。しかし、10試合で1勝しかできず12月28日に解任された[51]

監督成績

2020年12月26日現在[52]
さらに見る クラブ, 国 ...
クラブ 就任 退任 記録
試合勝ち分け負け勝率 %
ボーンマス イングランドの旗 1992年6月9日 1994年8月5日 107313838028.97
ジリンガム イングランドの旗 1995年7月31日 1999年7月1日 216946260043.52
ブリストル・シティ イングランドの旗 1999年7月5日 2000年1月14日 3310149030.30
ポーツマス イングランドの旗 2000年1月13日 2000年10月12日 35111014031.43
ストーク・シティ イングランドの旗 2002年11月1日 2005年6月28日 131473252035.88
プリマス・アーガイル イングランドの旗 2005年9月23日 2006年6月14日 39121512030.77
ストーク・シティ イングランドの旗 2006年6月15日 2013年5月21日 33312298113036.64
クリスタル・パレス イングランドの旗 2013年11月23日 2014年8月14日 2812511042.86
ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン イングランドの旗 2015年1月1日 2017年11月20日 121363649029.75
ミドルズブラ イングランドの旗 2017年12月27日 2019年5月17日 80352223043.75
シェフィールド・ウェンズデイ イングランドの旗 2020年11月13日 2020年12月28日 10145010.00
合計 1,137410338389036.06
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タイトル

脚注

外部リンク

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