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イタリアの自転車競技選手 (1981 - ) ウィキペディアから
ダミアーノ・クネゴ(Damiano Cunego、1981年9月19日 - )はイタリア のヴェネト州・ヴェローナ県のチェッロ・ヴェロネーゼ出身の自転車プロロードレース選手。2002年プロデビュー。22歳でジロ・デ・イタリア総合優勝を果たした。クライマーと目されてきたが、後にはジロ・ディ・ロンバルディア、アムステルゴールドレースでの優勝、2008年世界選手権2位などワンデーレースでの活躍も目立った。
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基本情報 | ||||
本名 |
ダミアーノ・クネゴ Damiano Cunego | |||
愛称 | il Piccolo Principe(小さな王子様) | |||
生年月日 | 1981年9月19日(43歳) | |||
国籍 | イタリア | |||
身長 | 169cm | |||
体重 | 58kg | |||
選手情報 | ||||
所属 | NIPPO・ヴィーニファンティーニ | |||
分野 | ロードレース | |||
役割 | 引退 | |||
特徴 |
クライマー クラシックスペシャリスト | |||
プロ経歴 | ||||
2002-2004 2005-2014 2015- |
サエコ ランプレ NIPPO・ヴィーニファンティーニ | |||
主要レース勝利 | ||||
ジロ・デ・イタリア 総合優勝 (2004) ジロ・デ・イタリア 通算4勝 ツール・ド・フランス 新人賞 (2006) ブエルタ・ア・エスパーニャ 通算2勝 ジロ・ディ・ロンバルディア (2004, 2007, 2008) アムステルゴールドレース (2008) ジャパンカップサイクルロードレース (2005, 2008) | ||||
最終更新日 2015年4月19日 |
秋のジャパンカップサイクルロードレースでは2回優勝しており、日本でも馴染み深い選手の一人。169cmの小柄な体格と端正な容姿から「il Piccolo Principe(小さな王子様)」と呼ばれる。
2002年にサエコでプロデビューしたが、もっぱらアシストとして働き、2003年まで特別に目立った成績は残していなかった。
しかし2004年にグランツールの一つであるジロ・デ・イタリアでステージ4勝をあげる大活躍を見せ、チームのエースであったジルベルト・シモーニを押しのけて総合優勝を成し遂げる。さらにシーズン終盤の ジロ・ディ・ロンバルディアでも優勝。ジャパンカップでも2位に入り、2004年 UCI・ロードワールドランキングスで1位に輝いた。
2005年からは サエコとランプレの合併に伴い出来た新チーム、ランプレ・カッフィータに移る。ジロ・デ・イタリアへの調整も兼ねて出場した直前のツール・ド・ロマンディでは山岳ステージで優勝し総合2位に入るなど好調かと思われたが、肝心のジロでは序盤から調子が上がらず、結局シモーニのアシストに回ることになる。さらに追い打ちをかけるように伝染性単核球症に罹患。シーズン中盤を棒に振ることになってしまった。しかしシーズン終盤にかけて調子を取り戻し、ジャパンカップでも優勝を果たした。
2006年は不仲を噂されたジルベルト・シモーニがサウニエルデュバルへ移籍したことに伴いチームのエースを務めることになり、ジロ・デ・イタリアではシモーニに続く総合4位、初出場のツール・ド・フランスではラルプ・デュエズの山頂ゴールが設定された第15ステージでフランク・シュレクと激しいステージ優勝争いを繰り広げて2位に食い込むなどの活躍を見せ、新人賞のマイヨ・ブラン を獲得した。
続く2007年、優勝を目指したジロ・デ・イタリアでは総合5位に終わったものの、ドイツ・ツアーで1勝したほか、ジロ・ディ・ロンバルディアで2回目の優勝を飾ってシーズンを締めくくった。
2008年はバスク一周でポイント賞を獲得、ステージ1勝を上げた他、アムステルゴールドレースではフランク・シュレク、アレハンドロ・バルベルデら強豪を抑えて優勝した。その後、ジロ・デ・イタリアには出場せず、ツール・ド・フランスに目標を絞ったが山岳ステージで連日後退。総合争いから脱落したうえ、第18ステージでの不運な落車による怪我で途中リタイアを余儀なくされた。
続いて出場したブエルタでも、ツール同様山岳ステージで精彩を欠いて総合成績で伸び悩み、第16ステージで世界選手権に備えてリタイアしたが、その世界選手権ロードレースでは2位で表彰台に立ち、ジロ・ディ・ロンバルディアでは自身3回目となる優勝を連覇で飾る。さらにジャパンカップでも2005年以来の優勝を遂げた。
2009年はバスク一周で総合6位、連覇を狙ったアムステルゴールドレースは5位、フレッシュ・ワロンヌが3位、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュが7位と全体的にあと一歩の成績が続いた。2年ぶりに出場したジロ・デ・イタリアでも第5ステージで大きく遅れてマリア・ローザ争いから早々と脱落。その後も第16ステージで逃げ集団に乗った以外はほとんど見せ場無く、総合19位に終わっている。
その後ツール・ド・フランスは回避して、世界選手権に向けた調整目的でブエルタ・ア・エスパーニャに出場。最初の山岳ステージかつ頂上ゴールとなった第8ステージで、残り2km地点でイヴァン・バッソが牽くメイン集団から鮮烈なアタックを決めると、先行していたダヴィ・モンクティエを残り800m地点で抜き去って、実に2004年のジロ・デ・イタリア第18ステージ以来、約5年半ぶりのグランツールでのステージ優勝を挙げた。さらに第14ステージでは逃げ集団に乗ると、残り15km過ぎでアタックしてそのまま独走。2位に2分半近い大差をつけて2勝目を飾った。その後、当初の目的通り世界選手権に備えるため第16ステージ終了後リタイアとなったが、久々の復活を印象付けることとなった。
2015年、NIPPO・ヴィーニファンティーニに移籍、キャプテンとしてプロコンチネンタルに昇格したチームを引っ張っている。
2016年のジロ・デ・イタリアでは、第19ステージまで山岳賞を堅守していたが、続く第20ステージでミケル・ニエベの逆転を許してしまい山岳賞獲得とはならなかった。
2018年、イタリア国内選手権ロードレースを最後に現役を引退。
獲得メダル | ||
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銀 | 2008 ヴァレーゼ | 個人ロード |
※( )内はステージ勝利数
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