ドイツの町 ウィキペディアから
ズルツバッハ (タウヌス) (ドイツ語: Sulzbach (Taunus), ドイツ語発音: [ˈzʊlt‿sbax][2]) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州マイン=タウヌス郡の町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。ズルツバッハは、1964年に開業したドイツで最初のショッピングセンター「マイン=タウヌス・センター」で知られている。
紋章 | 地図 (郡の位置) |
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基本情報 | |
連邦州: | ヘッセン州 |
行政管区: | ダルムシュタット行政管区 |
郡: | マイン=タウヌス郡 |
緯度経度: | 北緯50度07分59秒 東経08度31分44秒 |
標高: | 海抜 135 m |
面積: | 7.85 km2 |
人口: |
9,340人(2023年12月31日現在) [1] |
人口密度: | 1,190 人/km2 |
郵便番号: | 65843 |
市外局番: | 06196, 069 |
ナンバープレート: | MTK |
自治体コード: |
06 4 36 012 |
行政庁舎の住所: | Hauptstraße 11 65843 Sulzbach (Taunus) |
ウェブサイト: | sulzbach-taunus.de |
首長: | エルマー・ボチーク (Elmar Bociek) |
郡内の位置 | |
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地図 | |
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ズルツバッハは、マイン盆地とタウヌス山地南端の間に位置している。南はフランクフルト・アム・マインと接している。フランクフルトの中心街までは 15 km、フランクフルト空港までは 18 km、ヴィースバーデンまでは 35 km の距離にある。
町域を南から北に、かつては主要街道だったケーニヒシュタイナー通り、すなわち州道 L3266号線がかすめて通っている。この道路は現在、フォルダータウヌス地方の主要な連絡路となっており、2010年に 4車線に拡張された。
ズルツバッハは、その大部分が黄土質の土地に位置している。それ以外は砂や泥が、一部はロームと、一部は重く肥沃な表土と混ざった土地である。こうした土壌は農業に適している。ズルツバッハでは、10軒が営農している。最初の定住時代からすでに、ズルツバッハでは穀物の栽培が行われていた。後にはジャガイモやトウモロコシの栽培が行われ、現在まで続いている。最近ではナタネやテンサイの栽培が増えている。農産物の直販は多くのズルツバッハの商店にとって重要な商品である。新鮮な食料品が農家から直接納入されることは、住民たちから高く評価されている。
ズルツバッハは、北東はシュヴァルバッハ・アム・タウヌス、南は郡独立市のフランクフルト・アム・マイン、西はリーダーバッハ・アム・タウヌス、北西はバート・ゾーデン・アム・タウヌスと境を接している(フランクフルト以外はいずれもマイン=タウヌス郡)。
ズルツバッハは、1035年に初めて文献に記録されている。領主が入れ替わる時代があり、時に自由都市フランクフルトに担保として委託された時期もあったが、その後「ライヒスドルフ」(神聖ローマ帝国直轄の村)となった。高等裁判権は 1561年にはフランクフルトとプファルツ選帝侯が分割して所有していたが、1613年にプファルツ選帝侯のものとなった。
三十年戦争では、ヘーヒストの戦いの際にこの村は焼き払われ、これにより教会も被害を受けた。1650年のベルクシュトラーセ会談の後、領土交換により、ズルツバッハの代官はマインツ選帝侯が担当することとなった。最も古い部分は 1150年にまで遡る教会は、1660年に再建され、1724年に改築されている。ズルツバッハは、最後(1803年)まで帝国直轄の村として存続し続けたわずか 5つの村の 1つであった。この村は、1804年からライン川右岸側のマインツ選帝侯領とともにナッサウ大公国の一部となり、1866年にプロイセン王国領となった。
第二次世界大戦後、ズルツバッハは新たに設けられたヘッセン州の一部となった。1970年代のヘッセン州の地域再編の際、この町は町長カール・ラインケの尽力により町域をわずかに改編されただけであった。バート・ゾーデン・アム・タウヌスへの合併計画は住民の強い抵抗とヘッセン州違憲審査裁判所への提訴により、退けられた。
1964年、町内にアメリカのショッピングセンターをモデルとしたマイン=タウヌス・センターが建設され、ズルツバッハの堅実な税収源となった。
ズルツバッハには、カトリック教会が 1棟、プロテスタント教会が 1棟と、新使徒派教会がある。
プラッツ・アン・デア・リンデのプロテスタント教会は、8世紀の木造教会を起源とする。現在の教会堂で最も古い部分は、1031年の教会塔である(ズルツバッハの文献上の初出よりも 4年早い)。内部がフレスコで飾られた教会塔のアプシスは15世紀に建造されたものである。当時の教会堂は三十年戦争の間、1622年6月7日のヘーヒストの戦いで完全に焼失した。この教会堂の詳細については解っていない。1652年から1659年に教会が建立された。現在の教会堂は、1724年に建設されたものである。この教会は、本来の建築様式であるバロック様式と、ロマネスク様式やゴシック様式の時代の礼拝堂とに分けることができる。内部には 2基の祭壇、2つの聖歌隊席とオルガンがある。
ズルツバッハ (タウヌス) の町議会は 31議席からなる[3]。
エルマー・ボチーク (CDU) は、2015年11月22日の選挙で 55.3 % の票を獲得し、対立候補のレナーテ・ヴォルフ (SPD) を破って町長に選出された。この選挙の投票率は 52.6 % であった[4]。エルマー・ボチークは、2016年5月1日に町長に就任した。
図柄: 赤地に取り付け金具がついた拍車
1985年にケーゼフラー(ケスフラーまたはケーゼフラウとも呼ばれる)の記念碑が建立された。中世、ズルツバッハではハントケス(チーズ)の生産が普及していた。ズルツバッハの農婦たちはこれをフランクフルトのマーケットで売っていた。この付近では、ズルツバッハはふざけてケスバッハと呼ばれていた。これにちなんで、町の 950年祭に銅像が建立されたのである。ワインの産地で「ワインの女王」が選ばれるように、ズルツバッハでは2010年から毎年ズルツバッハのケスフラーが選ばれる。
1990年からズルツバッハはエルツ山地の町シェーンハイデと姉妹自治体となった。2000年のアドヴェントに、両町の姉妹自治体締結を示すため、町の中心にある広場ダレスにエルツ山地の習俗であるクリスマスピラミッドが設けられた。
教会前の広場「プラッツ・アン・デア・リンデ」にビュルガーブルンネン(住民の泉)がある。この泉は、青銅製のリング型のモニュメントからなり、1989年に造られた。
デア・パルク(公園)は、町の中を通る鉄道沿いに設けられている。公園の中をズルツバッハ川が流れ、公園の中央で池を形成している。その傍らに公開イベントに利用される四阿がある。
この町には以下の学校がある。
この他に 5つの幼稚園がある。
青年活動のためには、ユーゲントハウス(青年の家)がある。アイヒヴァルトハレ・ズルツバッハは町の体育館である。
ズルツバッハ (タウヌス) 自衛消防団は、1930年から活動しており、本部には 7台の車輌を有している。
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