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クラシコ・デル・フトボル・ウルグアージョ(スペイン語: Clásico del Fútbol Uruguayo)またはスーペルクラシコ(スペイン語: Superclásico)は、ウルグアイの首都モンテビデオを本拠地とする2つのサッカークラブ、CAペニャロールとクルブ・ナシオナル・デ・フットボールとの間で行われるラテンアメリカで最も歴史のあるダービーマッチである。
モンテビデオダービー | |
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都市、地域 | モンテビデオ |
初開催 | 1900年7月15日 |
チーム | CAペニャロール、クルブ・ナシオナル・デ・フットボール |
最多勝利 | CAペニャロール 191勝 |
最多出場選手 | ホセ・ピエンディベーネ (62試合) |
最多得点選手 | アティリオ・ガルシア (35ゴール) |
最大得点差勝利 |
ナシオナル 6-0 (1941年12月14日) ペニャロール 5-0 (1953年10月25日、2014年4月27日) |
ウルグアイのスーペルクラシコは、ウルグアイのサッカーにおいてはもちろんのこと、アメリカ大陸全体を見渡しても最も重要なライバル関係の1つである。ウルグアイで最も人気のある2大サッカークラブのCAペニャロールとクルブ・ナシオナル・デ・フットボールの間で争われる。2019シーズン終了時点で、両クラブは、ウルグアイ国内リーグのプリメーラ・ディビシオン116シーズンのうち97回(ペニャロール50回、ナシオナル47回)の優勝を占めている。国際大会においても、両クラブ合わせてコパ・リベルタドーレス優勝8回、インターコンチネンタルカップ優勝6回を含む、数多くのタイトルを獲得している。両クラブの初対戦は19世紀末の1900年7月15日で、イギリス以外では世界でも最古のダービーマッチの1つである[1]。
南米にはヨーロッパ出身の移民労働者によって創設されたサッカークラブが多く、CAペニャロールもまた、1891年9月28日にセントラル・ウルグアイ鉄道で働くイギリス人達によってCURCC(セントラル・ウルグアイ・レールウェイ・クリケット・クルブ)として創設された。モンテビデオ郊外のビジャ・ペニャロールを活動拠点とした。黄色と黒色のクラブカラーは鉄道の信号と踏切の色に由来する。創設メンバー118人のうち、72人がイギリス人、1人がドイツ人、45人がウルグアイ人であった。1900年、同じくヨーロッパ出身者が中心となって運営する4クラブでサッカーリーグを創設。1911シーズンまでに5回のリーグ優勝を果たすなど好成績を収めていたが、次第に親会社にとってクラブ運営が負担になっていき、1913年12月13日にセントラル・ウルグアイ鉄道から独立してペニャロールを結成した[2]。1923年、ペニャロールはウルグアイサッカー協会(AUF)に造反してウルグアイサッカー連盟(FUF)を設立、独自の国内リーグを立ち上げた。その後1927年に再統合されるまで国内サッカーは大混乱に陥った。1927シーズンに正規の国内リーグへの再加盟を果たし現在に至っている。
一方、クルブ・ナシオナル・デ・フットボールは旧来からモンテビデオに住むウルグアイ人が中心となって創設した南米ネイティブのクラブである。当時のモンテビデオの人口29万人の半数以上はウルグアイ国外出身者であった。そんな中、1899年5月14日にナシオナルは創設された。トリコロールのクラブカラーは、ウルグアイ独立の英雄ホセ・アルティガスの3色旗に由来する。CURCCをはじめヨーロッパ人によって運営されるクラブが多数を占める中、クリオーリョの選手によるクラブの結成は悲願であり、ナショナリズム支持者を中心に急速に人気を獲得した。国内リーグへの初年度の参加は拒否されたものの、リーグ創設2年目の1901シーズンにようやく参加を果たした。以来、一世紀超にわたり一度もリーグ脱退や2部降格すらも経験することなく現在に至っている。ウルグアイ人のためのクラブであることを証明するように、ウルグアイ代表がアルゼンチン代表から初勝利をあげた1903年9月13日の親善試合のメンバーは、完全にナシオナルの選手だけで構成されていた。
このように、両クラブは人気と実績において国内を二分してきただけでなく、モンテビデオ郊外のイギリス人労働者のスポーツクラブにルーツを持つペニャロールと、クリオーリョが立ち上げて都心部で発展してきたクルブ・ナシオナル・デ・フットボール、さらに一度はウルグアイサッカー協会に反旗を翻したペニャロールと、協会に対し常に忠実であり続けるナシオナル、というアイデンティティの違いも互いの対抗意識を増長させてきた。19世紀に始まった2大クラブのライバル関係は21世紀に入った現在も続いている[3]。
CAペニャロールのホームスタジアムは2016年にオープンしたエスタディオ・カンペオン・デル・シグロである。クルブ・ナシオナル・デ・フットボールのホームスタジアムは1900年開場で、1930年に開催された第1回ワールドカップの会場にもなったエスタディオ・グラン・パルケ・セントラルである。
カンペオン・デル・シグロが完成するまでは、ペニャロールは、第1回ワールドカップの決勝の聖地であるエスタディオ・センテナリオを事実上ホームスタジアムとして使用していた。一方のナシオナルも、グラン・パルケ・セントラルが2014年の拡張工事までは手狭であったため、スーペルクラシコなどのビッグゲームではナショナルスタジアムであるセンテナリオを使用することがこれまで多かった。
クラブ名 | スタジアム名 | 収容人員 | 画像 |
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CAペニャロール | エスタディオ・カンペオン・デル・シグロ | 40,000人 | |
クルブ・ナシオナル・デ・フットボール | エスタディオ・グラン・パルケ・セントラル | 34,000人 | |
サッカーウルグアイ代表 | エスタディオ・センテナリオ | 60,000人 |
大会 | 試合数 | ペニャロール 勝利 |
引き分け | ナシオナル 勝利 |
ペニャロール 得点 |
ナシオナル 得点 |
---|---|---|---|---|---|---|
国内リーグ | 263 | 90 | 91 | 82 | 331 | 310 |
コパ・リベルタドーレス | 38 | 13 | 15 | 10 | 44 | 41 |
その他公式戦 | 137 | 52 | 38 | 47 | 173 | 160 |
公式戦通算 | 438 | 155 | 144 | 139 | 548 | 511 |
親善試合 | 106 | 36 | 32 | 38 | 133 | 140 |
通算 | 544 | 191 | 176 | 177 | 681 | 651 |
ペニャロールは1891年9月28日にCURCCとして創設され、1913年12月13日にペニャロールとなった。一方のナシオナルは1899年5月14日創設である。ペニャロールを、前身のCURCCと同一の組織体と見なすべきか否かについて、ファン・評論家・クラブ関係者などを巻き込んだ論争が繰り広げられている。
CURCC時代に5回の優勝を記録していることから、仮に両者の歴史的連続性が認められないと判断された場合、クラブの歴史の古さや国内リーグの優勝回数などにおいてナシオナルがペニャロールを逆転することになり、ウルグアイサッカーの盟主論争にまで発展する[5]。
この記事におけるデータなどの記録は、特に断りがない限りペニャロールがCURCCの歴史を引き継いでいるものとして扱っている。
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