ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)
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第4代アバディーン伯爵ジョージ・ハミルトン=ゴードン(英語: George Hamilton-Gordon, 4th Earl of Aberdeen, KG KT PC FRS FRSE FSA, 1784年1月28日 – 1860年12月14日)は、イギリスの政治家、貴族。
第4代アバディーン伯爵 ジョージ・ハミルトン=ゴードン George Hamilton-Gordon, 4th Earl of Aberdeen | |
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![]() アバディーン伯爵(1860年) | |
生年月日 | 1784年1月28日 |
出生地 | グレートブリテン王国 スコットランド・エディンバラ |
没年月日 | 1860年12月14日(76歳没) |
死没地 | イギリス イングランド・ロンドン |
出身校 | ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ |
所属政党 | トーリー党(保守党)→ピール派 |
称号 | 第4代アバディーン伯爵、ガーター勲章勲爵士(KG)、シッスル勲章(KT)、王立協会フェロー(FRS)、枢密顧問官 (PC) |
配偶者 |
(1) キャサリン・ハミルトン (2) ハリエット |
サイン |
![]() |
在任期間 | 1852年12月28日 - 1855年1月31日[1] |
女王 | ヴィクトリア |
内閣 |
第一次ウェリントン公爵内閣 第二次ロバート・ピール内閣 |
在任期間 |
1828年6月2日 - 1830年11月22日 1841年9月2日 - 1846年7月6日 |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1814年6月1日 - 1860年12月14日 |
はじめトーリー党(保守党)の政治家だったが、穀物法廃止をめぐる保守党分裂の際には自由貿易を奉じるピール派に属して保守党を離れた。ロバート・ピールの死後には代わってピール派の指導者となる。ホイッグ党が内紛を起こしていたため、1852年12月にホイッグ党とピール派の連立政権の首相となる。在任中にクリミア戦争が発生した。1855年1月に退任し、ホイッグのパーマストン子爵に首相職を譲った。
アバディーン伯爵位の法定推定相続人の地位にあった1791年から1801年までハッド卿(Lord Haddo)の儀礼称号を使用した[2]。
生涯
要約
視点
初期の経歴

1784年1月28日、スコットランド貴族の第3代アバディーン伯爵ジョージ・ゴードンの息子であるハッド卿ジョージ・ゴードンの長子として、1784年1月28日にスコットランド・エディンバラで誕生した[3][2]。母はシャーロット(旧姓バード、ウィリアム・バードの娘)[2]。
1791年10月2日に父、1795年10月8日に母を亡くしたため、小ピットと初代メルヴィル子爵ヘンリー・ダンダスが後見人となって育てられた[4]。
1794年よりパブリックスクールのハーロー校で教育を受けた後[5]、1800年6月30日にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学、1804年にM.A.の学位を修得した[4][3]。
1801年8月13日、祖父が亡くなり、第4代アバディーン伯爵爵位を継承した[4][2]。1805年7月28日に最初の妻キャサリン・ハミルトン(1784年1月10日 – 1812年2月29日、初代アバコーン侯爵ジョン・ハミルトンの娘)と結婚した[4][2]。
外交官として
最初の妻キャサリンが亡くなった1812年、彼は外務省に加わった。1813年に駐オーストリア大使に就任し、ウィーンへ赴任し、イギリス=オーストリア間の反ナポレオンの同盟トプリッツ条約に署名した。しかし外相カースルレー子爵と対立してパリ条約の頃に辞職した[4]。1814年6月には連合王国貴族のアバディーンのゴードン子爵(Viscount Gordon of Aberdeen)に叙され、貴族院議員に列した[6]。
1815年7月8日にハリエット・ダグラス(1792年6月8日 – 1833年8月26日、ジョン・ダグラス閣下の娘)と再婚し、1818年11月13日には勅許を得て、亡き先妻の姓を加えて「ハミルトン=ゴードン」の二重性に改めた[2]。
政界にて

10年ほどスコットランドの領地の経営に専念し、政治からは遠ざかっていたが、1828年にウェリントン公爵政権でランカスター公領大臣、ついで外相として入閣する[4]。
1834年から1835年の第一次ピール内閣では陸軍・植民地大臣として入閣し、1841年の第二次ピール内閣でも再び外相になる。清に南京条約を締結させてメルバーン子爵前政権下で勃発したアヘン戦争を終結させると、ヨーロッパ列強とアメリカと宥和外交を展開した。特にアメリカとの関係を重視して、ウェブスター=アッシュバートン条約を結び国境問題の解決にあたる。フランス外相フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーとの関係も強化し、タヒチ問題ではフランスに譲歩した。アフガニスタン問題でもロシアに譲歩している。外務省出身だったアバディーン伯は、長く軍事関係の役職をやっていた前任者で同年齢のパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルとは正反対の外交観を持っていた[7][8]。
1846年の穀物法廃止をめぐる論争では首相ピールの穀物自由貿易路線を支持した。結局穀物法は廃止されたが、保守党は分裂し、ピールは保守党内自由貿易派を率いてピール派を立ち上げた。アバディーンもこれに参加した[8]。
首相職

1850年にピールが死去すると代わってピール派の指導者となる。1852年12月にダービー伯爵保守党政権が崩壊したが、ホイッグ党はジョン・ラッセル卿派とパーマストン子爵派の二大派閥に分裂していたため、首相を出すことができず、ピール派のアバディーンが組閣の大命を受けた。ピール派6人、ホイッグ7人、急進派1人から成る連立政権だった[9][8]。
アバディーンは平和外交家として知られていたが、東方問題でロシアとトルコが開戦すると、反ロシアの世論や閣僚(内相パーマストンや外相ラッセル)を抑えられず、1854年3月にロシアに宣戦布告する(クリミア戦争)[10]。だが戦争の長期化に伴い国民の支持を失う。わずか2年足らずで政権は崩壊し、閣内にいたパーマストン内相に戦争の采配をゆずった[8]。
晩年
退任後、イギリスを戦争に導いてしまったと後悔し続けたという。1860年12月14日にロンドンの自宅アーガイル・ハウスで死去した[8][5]。爵位と財産は息子のジョージが継承した[2]。
栄典

爵位・準男爵位
1801年8月13日に父の死により以下の爵位を継承した[11]。
- 第4代アバディーン伯爵(4th Earl of Aberdeen)
- 第4代フォーマーティーン子爵(4th Viscount of Formantine)
- (1682年11月30日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
- 第4代ハッド=メスリック=ターブス=ケリー卿(4th Lord Haddo, Methlick, Tarves and Kellie)
- (1682年11月30日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
- (ハッドーの)第6代準男爵(6th Baronet, "of Haddo")
- アバディーン州におけるアバディーンの初代ゴードン子爵(1st Viscount Gordon, of Aberdeen in the County of Aberdeen)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
勲章
その他
家族
1805年にキャサリン・エリザベス・ハミルトン(初代アバコーン侯爵ジョン・ハミルトンの娘)と結婚。彼女との間に以下の4子を儲けた[13]。
- ジェーン(1807年2月11日 – 1824年7月21日)[13]
- シャーロット・キャサリン(1808年3月28日 – 1818年7月21日)[13]
- アリス(1809年7月12日 – 1829年4月21日)[13]
- 男子、名前不詳(1810年11月23日)[13]
1812年にキャサリンと死別し、1815年にハリエット・ダグラスと再婚した。彼女との間に以下の5子を儲ける[13]。
- ジョージ・ジョン・ジェームズ(1816年9月28日 – 1864年3月22日) - 第5代アバディーン伯爵[12]
- アレクサンダー(1817年12月11日 – 1890年5月19日) - 陸軍軍人。1852年12月9日、キャロライン・エミリア・メアリー・ハーシェル(Caroline Emilia Mary Herschel、1909年1月29日没、初代準男爵サー・ジョン・ハーシェルの娘)と結婚、子供あり[12]
- フランシス(1818年12月 – 1834年4月20日)[13]
- ダグラス(1824年3月13日 – 1901年12月6日) - 聖職者。1851年7月15日、エレン・スーザン・アン・ダグラス(Ellen Susan Anne Douglas、1914年1月22日没、第17代モートン伯爵ジョージ・ショルト・ダグラスの娘)と結婚、子供あり[12]
- アーサー(1829年11月26日 – 1912年1月30日) - 政治家、植民地総督。初代スタンモア男爵[12]
出典
参考文献
関連図書
外部リンク
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