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ジョン・ベイリャル(John Balliol, 1249年? - 1314年11月25日)は、スコットランド王(在位:1292年 - 1296年)。
父はジョン・ベイリャル(1269年没)。母デヴォグィラは、ウィリアム1世の弟ハンティンドン伯デイヴィッドの長女マーガレットとアラン・オブ・ギャロウェイとの間の娘であった[1]。妻のイザベルはヘンリー3世の異父妹アリス・ド・リュジニャンと後にスコットランド総督となった6代サリー伯ジョン・ド・ワーレンとの娘(つまりエドワード1世の従姉妹)である[2]。
1290年女王マーガレットの死去により、ダンカン1世以来のアサル王家の直系が絶えたため、王位の座をめぐって13人の王位継承者たちの争いとなった(スコットランド独立戦争#王位継承者問題を参照)[3][4]。
1291年、スコットランド支配を狙うイングランド王エドワード1世がこの争いに介入し、裁定者としてジョン・ベイリャルを王位継承者に選んだ。長系継承者であること[5]が公式の理由であるが、イングランド王家と近かったこと、御しやすい人物と思われた等が理由として推測されている[6]。翌1292年、ジョン・ベイリャルはスクーンの運命の石の上で戴冠した[7]。
スコットランド王となったジョン・ベイリャルであったが、イングランド王に対しての臣従を誓わされ、エドワード1世の完全な傀儡であった[8]。しかし、ジョン・ベイリャルは1294年にフランスへの兵員動員を拒否し[9]、フランス王フィリップ4世と同盟(いわゆる古い同盟)を結んだ[10]。1296年4月、ジョン・ベイリャルはイングランド王に対する臣従を拒否し、北部イングランドへ侵攻した[10]。しかし、エドワード1世にダンバーで大敗し、一旦は逃れたものの、7月10日ストラカスロで降伏して、王冠を捨てた[11]。
廃位されたジョンは長男エドワードとともにロンドンに送られ、3年間ロンドン塔に幽閉された[11]。1299年、釈放されたジョン・ベイリャルはフランス・ピカルディの所領に引退し、15年後の1314年に没した。
1281年2月7日以前に、イザベル・ド・ワーレンと結婚し、2男をもうけた[2]。
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