Remove ads
スコットランド王国で起こったイングランド王国に対する戦争 ウィキペディアから
スコットランド独立戦争(スコットランドどくりつせんそう、英語:Wars of Scottish Independence)は、13世紀から14世紀にかけてスコットランド王国で起こった、イングランド王国に対する戦争である。
1214年に16歳で王位についたアレグザンダー2世は、イングランド王ヘンリー3世の妹ジョーンと結婚し、1236年にはヨーク条約を結んでイングランドとの国境を確定した。その後、1249年にノルウェーからのヘブリディーズ諸島の奪還を目指して進軍中に死去し、8歳のアレグザンダー3世が跡を継いだ。
1255年、アレグザンダー3世は親政に乗り出し、摂政のジョン・ベイリャル (en) らを追放した。また、イングランドの内紛には中立を保ち、内政の安定を保った。そうして、かねてからの懸案だったノルウェー軍の駆逐に乗り出すことになった。1261年にヘブリディーズ諸島の奪還に成功し、1263年には西部のクライド湾でノルウェー王ホーコン4世を討ち破った。3年後のノルウェーとの和平条約で、ヘブリディーズ諸島は正式にスコットランド領となった。
アレグザンダー3世はヘンリー3世の娘マーガレット(ジョーンの姪)と結婚し、3人の子供をもうけていたが、全員に先立たれた。そして1285年に結婚した後妻ヨランド・ド・ドルーとの間に子供はできなかった。1286年、アレグザンダー3世は死去に際して、長女マーガレットがノルウェー王エイリーク2世(ホーコン4世の孫)に嫁いでもうけた孫娘マルグレーテを王位につけるよう遺言した。
長老、重臣たちの擁立により、3歳のノルウェー王女マルグレーテはスコットランド初の女王マーガレットとして即位したが、ノルウェーの王宮で父王の許にとどめられた。国政は合議制で運営されたが、間もなく有力諸侯間の対立が激しくなった。内乱の続いたヘンリー3世の治世下ではほとんど名目のみになっていたとはいえ、イングランド王はヘンリー2世以来スコットランドの宗主であり、エドワード1世はこの機を生かして干渉を行った。すなわち、マーガレットをスコットランドに呼び寄せ、その後イングランド王太子エドワード(後のエドワード2世)と婚約させ、スコットランドの独立は保ったまま王朝連合とするというものである。
1289年にノルウェーを発ったマーガレットの船は途中で大時化に遭い、9月26日にオークニー島(当時はノルウェー領)へたどり着いたところでマーガレットは息を引き取った。わずか7歳であった。そして、これはアサル王家の終焉を意味した。
王位継承者の最有力候補は実力者であるジョン・ベイリャル(アレグザンダー3世の摂政の息子)とロバート・ドゥ・ブルース (en) であったが、互いに譲らず混乱が生じ始めた。これを見て、ホラント伯フロリス5世やノルウェー王エイリーク2世、イングランド貴族ら外国人も含めて、王家に少しでも血縁のある者が次々と名乗り出て合計13人となり、収拾がつかなくなった。
内戦の勃発を恐れたスコットランド諸侯たちは、エドワード1世に再び調停を求めた。これを好機と見たエドワード1世は、1291年5月にイングランド軍を率いて両国の国境近くのノーラムで王位請求者や領主たちを集め、調停への服従と空位の間のスコットランド統治権を要求した。スコットランド貴族たちは当初ためらったが、多くの者はイングランドにも所領を持っていた関係上イングランド王に逆らい難く、強大なイングランド軍の無言の圧力もあって、これを了承した。
ジョン・ベイリャルとロバート・ドゥ・ブルースは、共にマルカム4世およびウィリアム獅子王の弟ハンティンドン伯デイヴィッドの女系の子孫であったが、長系優先であればジョン・ベイリャル(デイヴィッドの長女の孫)、血統の近さではロバート・ドゥ・ブルース(デイヴィッドの次女の子)が優位であった。最初の審議で有力な4人(前述の2人とフロリス5世、およびイングランドの男爵ジョン・ヘイスティングス (en) )に絞られたが、審議はしばしば順延された。王国の分割相続も検討されたが、翌1292年11月17日、ベリクで最終的な裁定が行われ、正式にジョン・ベイリャルが国王に指名された。この間、エドワード1世はスコットランドの支配者として振る舞い、ジョン・ベイリャルは王位についても傀儡に近く、イングランドに対して屈辱的な臣従を誓わされた。
ジョン・ベイリャルは、しばらくはエドワード1世の様々な要求に従っていたが、臣下の支持を失っていった。スコットランド貴族たちは12人の評議会を作り、1294年にフランスへの兵員動員を拒否し、フランス王フィリップ4世と同盟(いわゆる古い同盟)を結んだ。これに対し、エドワード1世はイングランド北部カーライルに軍を集め、同盟の破棄を迫った。
1296年4月、ジョン・ベイリャルはイングランドへの臣従の拒否を宣言し、イングランド北部へ侵攻して、自身の岳父であるサリー伯ジョン・ド・ワーレンらが率いるイングランド軍とダンバーで対戦した。ダンバーではスコットランド軍が多数であったが、統制が取れておらず、イングランド軍が陣形を組み換えたのを逃走する準備と見て無謀な攻撃を行い、大敗した。ジョン・ベイリャルは一旦は逃れたものの、10月にストロカスロで降伏した。
スコットランドはエドワード1世によって「スクーンの石」を奪われ(スコットランド人は王冠を捨て、以後のスコットランドに王位は許さない、もしくはイングランド王がスコットランド王を兼ねるというイングランドの意思を表す)、ジョン・ベイリャルは廃位させられ、長男エドワードとともにロンドンへ送られ、3年間幽閉された。スコットランドには王位が許されず、以後スコットランドの統治は、ジョン・ド・ワーレンを総督として、イングランド人によって統治されることになった。
1297年5月、イングランド兵とのトラブルに巻き込まれたウィリアム・ウォレスは、ラナークにてイングランド人の州長官 (High Sheriff) ヘッセルリグを殺害した (Action at Lanark) 。民衆はウォレスを支持し、イングランド支配下のスコットランドにおいて大反乱が勃発した。ウォレス率いる反乱軍は、同年9月スターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍を徹底的に打ち負かし勢いづいた。しかし翌1298年、フォールカークの戦いでイングランド軍に大敗し、スコットランド人によるこの大反乱は失敗に終わる。ウォレスはその後も7年間にわたってゲリラ戦を行い、根強くイングランドに抵抗し続けたが、1305年に捕らえられ、反逆者として八つ裂きの刑に処せられた(ウォレスは今なおスコットランドでは愛国者・英雄として称えられている)。
ウォレス以外にもイングランドに抵抗する者は続々と現れたが、彼らには独自の利害があり、権力闘争に明け暮れ、連携を欠いていた。その中の一人が、マーガレット女王死後の13人の王位請求者の一人の孫、祖父と同名のロバート・ドゥ・ブルース(ロバート1世)である。ロバートは自らの王位を望んでいたため、ウィリアム・ウォレス率いる一連の反乱への協力には終始曖昧な態度を取り続けた。また、1306年2月には反乱軍ベイリャル派の首領でジョン・ベイリャルの甥である「スコットランドの守護者」ジョン・カミンを教会内で殺害し、教皇クレメンス5世から破門される始末であった。ちなみに、ジョン・カミンの同名の父 (en) も王位請求者の一人であった。ともあれ、最大のライバルであったジョン・カミンを殺害し、権力闘争に打ち勝ったロバートは、同年3月25日に戴冠式を強行した。これは、イングランド統治下にありながら独断でスコットランド王位についたことを意味した。
事態を重くみたイングランドは同年6月26日に討伐軍を派遣し、ロバートを徹底的に打ち負かした。主な協力者は処刑され、ロバート自身も北アイルランド沖ラスリン島まで逃れた。しかし翌1307年3月、ロバートの腹心ジェームズ・ダグラス (en) がダグラス城 (Douglas Castle) を攻撃しイングランドを打ち破ってからは、スコットランド各地で連勝を重ねるまでに盛り返した。対するイングランドもエドワード1世自ら病をおして出陣したがカーライル近くで病没し、イングランド軍は勢いを失ってしまった。後継者エドワード2世は進軍を中止し、(国王死去による国内の動揺を抑えるため)ロンドンへ戻り、以後スコットランドにおける軍事は臣下に任せきりにした。こうした中、ロバートは各地でイングランド軍を破り、勢力圏を広めていった。
1314年、ロバートがスコットランドの大部分を再征服するに至って、イングランドはようやく国王自ら大軍を率いてスターリングへ向かったが、同年6月、バノックバーンの戦いでロバート軍に大敗した。この敗北によりイングランドはスコットランドにおける統治権を完全に失い、1318年にはスコットランドから全てのイングランド兵が駆逐された。1320年、アーブロース寺院 (Arbroath Abbey) にてスコットランドはイングランドからの独立を宣言した(アーブロース宣言)。教皇ヨハネス22世は、1323年にロバート1世の破門を解き、スコットランド王として承認した。
1327年、イングランド王エドワード2世は王妃イザベラ率いる反乱軍によって廃位させられ、代わって息子エドワード3世がイングランドの王位についた。翌1328年、イザベラの申し入れにより、エドワード3世の末妹ジョーンとロバートの長男デイヴィッド(後のデイヴィッド2世)が結婚し、両国の間で平和条約が結ばれた。
1329年、スコットランド王ロバート1世が死去し、長男デイヴィッド2世はわずか5歳で王位を継承した。ロバート1世によって所領を奪われていたベイリャル派の貴族たちは、1332年8月にジョン・ベイリャルの長男エドワード・ベイリャルを担いで反乱を起こした。ベイリャル派貴族率いる反乱軍はイングランド王エドワード3世の支援を受け、ダプリン・ムーアの戦い (Battle of Dupplin Moor) でスコットランド軍を破り、エドワード・ベイリャルはスコットランド王として戴冠した。
エドワード3世の後押しでスコットランド王位についたエドワード・ベイリャルは、イングランド王に臣従を誓い、南部諸州を割譲した。この行為はスコットランド王ロバート1世がスコットランド人民に誓ったアーブロース宣言に反する行為であり、これに怒ったジェームズ・ダグラスの弟アーチボルト・ダグラス (en) は同年12月に反乱を起こした。アーチボルト・ダグラスはアナン (Annan) でエドワード・ベイリャルを破り、敗れたエドワード・ベイリャルはイングランドへ逃れた。しかし1333年、アーチボルトはハリドン・ヒルの戦い (Battle of Halidon Hill) でイングランド王エドワード3世に敗れて戦死した。これを見たデイヴィッド2世は、1334年に王妃ジョーンとともにフランスへ逃れた。こうしてスコットランドは、デイヴィッド2世とエドワード・ベイリャルという2人の王がいるにもかかわらず、国内には王が不在という異常な事態となった。国王不在のスコットランドでは、デイヴィッド2世の甥ロバート・ステュアートが摂政として王国を守ることになった。
1337年、イングランドとフランスとの間で百年戦争が勃発した。フランス王フィリップ6世は、イングランドを北から牽制する目的でデイヴィッド2世のスコットランド帰国を後押しした。1341年、亡命先のフランスから帰国したデイヴィッド2世はフィリップ6世の要請に応えて、1346年10月にイングランド侵攻の軍を起こした。しかし、ネヴィルズ・クロスの戦いで大敗し、デイヴィッド2世はイングランド軍に捕らえられた。デイヴィッド2世はイングランドに護送され捕囚として過ごすこととなり、国王不在のスコットランドでは再びロバート・ステュアートが摂政として王国を守ることになった。なお、デイヴィッド2世は、前イングランド王の娘で現国王の末妹のジョーンを妻に持ち、自身もイングランド王家の血を引いているため、国王から厚遇されイングランドでの生活は比較的自由で快適なものだったという。
2人のスコットランド王(エドワード・ベイリャルとデイヴィッド2世)を捕らえたエドワード3世は、イングランドへ亡命してきたエドワード・ベイリャルには年金と引き替えにスコットランドの割譲を、敗北したデイヴィッド2世には以後のスコットランド王位の承継はイングランド王エドワード3世またはその嗣子に限るという約束を取り付けさせようとしていた。スコットランド議会はスコットランド王を人質に取ったこれらイングランドの振る舞いに激しく反発した。イングランドも大国フランスと交戦中でスコットランド侵攻を再開するまでの余力はなく、右往曲折の末1357年10月、デイヴィッド2世の釈放と引き換えに身代金10万マークを10年の分割払いで支払うことで合意した。デイヴィッド2世は釈放され、スコットランドへ帰国した。
スコットランド王デイヴィッド2世は、自身が引き起こした莫大な身代金の支払いに王としての権威の失墜を感じ、議会優位のスコットランドにいることを苦痛に思うようになり、また荒廃し殺伐としたスコットランドでの生活よりイングランドでの気ままな生活を懐かしがって、密かにスコットランド王位をイングランド王エドワード3世またはその嗣子に継承させるという密約をイングランドと交わした末、1367年、ロンドンへ戻ってしまった。この動きに対して、スコットランド議会はアーブロース宣言に従い、イングランド王エドワード3世の息子クラレンス公ライオネルのスコットランド次期王位を否定し、身代金を払い続けることで対抗した。身代金の支払いは国家財政を逼迫させ、更なる重税負担が国民に重くのしかかり、長らく続いた度重なる侵攻と内乱、加えて1349年からのペストの蔓延はスコットランド人を疲弊させ、スコットランドは荒廃の極みに達した。
こうした中、1371年に跡継ぎのないままデイヴィッド2世は死去した。エドワード・ベイリャルも独身のまま死去しており、2つの王家が共に断絶した。ロバート1世の外孫であり、摂政として実質的にスコットランドを統治していたロバート・ステュアートがロバート2世として王位につき、ステュアート朝を開いた。
ダンカン1世 | マクベス | グロッホ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルカム3世 | ドナルド3世 | ルーラッハ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー1世 イングランド王 | マティルダ | ダンカン2世 | エドガー | アレグザンダー1世 | デイヴィッド1世 | ベソック | ユートレッド ティンダル卿 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2代略) | ウィリアム・ド・ワーレン | エイダ | ヘンリー | ヘクスティルダ | リチャード・カミン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョン イングランド王 | マルカム4世 | ウィリアム1世 | (2代略) | デイヴィッド | エイダ | フロリス3世 ホラント伯 | マーガレット | ハンフリー・ド・ブーン | ウィリアム・カミン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー3世 イングランド王 | ジョーン | アレグザンダー2世 | アラン ガロウェイ卿 | マーガレット | イザベラ | ロバート・ブルース | エイダ | ヘンリー・ヘイスティングス | ウィレム1世 ホラント伯 | ヘンリー・ド・ブーン | リチャード・カミン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エドワード1世 イングランド王 | マーガレット | アレグザンダー3世 | ジョン・ド・ワーレン | デヴォグィラ | ジョン・ベイリャル | ロバート・ブルース | ヘンリー・ヘイスティングス | フロリス4世 ホラント伯 | ハンフリー・ド・ブーン | ジョン・カミン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エドワード2世 イングランド王 | イザベラ | マーガレット | エイリーク2世 ノルウェー王 | イザベラ | ジョン・ベイリャル | ロバート・ブルース | アレグザンダー・ステュアート | ジョン・ヘイスティングス | ウィレム2世 ホラント伯・ローマ王 | ハンフリー・ド・ブーン | エレノア | ジョン・カミン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エドワード3世 イングランド王 | ジョーン | マーガレット | エドワード・ベイリャル | イザベル | ロバート1世 | エドワード・ブルース アイルランド王 | ジェームズ・ステュアート | エリザベス | ウィリアム・ダグラス | フロリス5世 ホラント伯 | ハンフリー・ド・ブーン | ジョン・カミン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エドワード黒太子 | ライオネル | デイヴィッド2世 | マージョリー | ウォルター・ステュアート | ジェームズ・ダグラス | アーチボルド・ダグラス | ヤン1世 ホラント伯 | エリザベス | ハンフリー・ド・ブーン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロバート2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(ステュアート朝) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.