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ドイツのサッカー選手・監督 ウィキペディアから
シュテファン・クンツ(Stefan Kuntz、1962年10月30日 - )は、ドイツ・ノインキルヒェン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元トルコ代表監督。選手時代のポジションはフォワード。
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Stefan Kuntz | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1962年10月30日(62歳) | |||||
出身地 | ノインキルヒェン | |||||
身長 | 180cm | |||||
体重 | 84kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1970-1981 | ボルシア・ノインキルヒェン | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1980-1983 | ボルシア・ノインキルヒェン | 89 | (28) | |||
1983-1986 | VfLボーフム | 100 | (41) | |||
1986-1989 | バイエル05ユルディンゲン | 94 | (32) | |||
1989-1995 | 1.FCカイザースラウテルン | 170 | (75) | |||
1995-1996 | ベシクタシュJK | 30 | (9) | |||
1996-1998 | アルミニア・ビーレフェルト | 65 | (25) | |||
1998-1999 | VfLボーフム | 20 | (6) | |||
2002-2003 | SVフルパッハ | 22 | (22) | |||
2004-2005 | FCパラティア・リンバッハ | 10 | (1) | |||
通算 | 600 | (239) | ||||
代表歴 | ||||||
1983-1985 | 西ドイツ U-21 | 4 | (3) | |||
1986 | 西ドイツ B | 1 | (2) | |||
1993-1997 | ドイツ | 25 | (6) | |||
監督歴 | ||||||
1999-2000 | ボルシア・ノインキルヒェン | |||||
2000-2002 | カールスルーエSC | |||||
2003 | SVヴァルトホーフ・マンハイム | |||||
2003 | LRアーレン | |||||
2016-2021 | ドイツ U-21 | |||||
2021-2023 | トルコ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
父親のギュンター・クンツも、1960年代にボルシア・ノインキルヒェンでプレーしたサッカー選手である。
クンツは地元クラブボルシア・ノインキルヒェンの下部組織で育ったが、その一方で警察官としての職業訓練を受けていた[1]。1983年、VfLボーフムと契約を結びプロサッカー選手としてのキャリアを開始すると1983-84シーズン開幕戦のキッカーズ・オッフェンバッハ戦でデビューし決勝点を決める活躍を見せた[1][2]。さらに、1985-86シーズンには22得点をあげてリーグ得点王となった[1]。
1986年にFCバイエル05ユルディンゲンに移籍し3シーズンを過ごした後、1989年に1.FCカイザースラウテルンへ移籍[3]。カイザースラウテルン在籍時の1989-90シーズンにはDFBポカール優勝、1990-91シーズンにはブンデスリーガ優勝に貢献し[3]年間最優秀サッカー選手賞を受賞[4]、1993-94シーズンには18得点をあげて2度目のブンデスリーガ得点王となった[3]。
その後、トルコのクラブであるベシクタシュJKでプレーするなど1999年まで現役を続け、ドイツ・ブンデスリーガで449試合に出場して179得点を挙げた[3]。
代表レベルではU-21代表やB代表などの下位カテゴリでのプレー経験があり、ドイツ代表としては1993年12月18日に行われたアメリカ合衆国戦でデビューすると、この試合で代表初得点を決めた[5]。1994 FIFAワールドカップではグループリーグ1試合に出場したのみに終わったが[5]、UEFA EURO '96では準決勝のイングランド戦においてアラン・シアラーに先制されて迎えた前半15分に同点ゴールを記録するなど[6]、5試合に出場しタイトル獲得に貢献した。ドイツ代表としての通算成績は国際Aマッチ25試合出場6得点で、その内訳は20勝5分である[5]。
引退後はユース時代を過ごしたボルシア・ノインキルヒェンやカールスルーエSCなどで監督を務めたが結果を残すことは出来ず、スポーツマネージメント業に転じた[7]。2005-06シーズンにはTuSコブレンツ、2006年から2008年まではVfLボーフムでアスレティック・ディレクターを務めた後、2008年4月にカイザースラウテルンの会長に就任した[3][7]。
当時のカイザースラウテルンは存続の危機にあったが就任当初からリーダーシップを発揮し、クラブの財政問題を改善する一方で、ヘアツブルト(ドイツ語: Herzblut)と題したキャンペーンを打ち出しサポーターや地元企業に対して支援を呼びかけるなどの経営手腕を見せた[7]。クンツは就任2年目でブンデスリーガ1部昇格に導くと2010-11シーズンには7位という成績を収めたが、翌2012-12シーズンに最下位となり2部に降格すると、その後は1部リーグ復帰を果たせずにいた[8]。2015年11月からはブンデスリーガを統括するドイツサッカーリーグ機構 (DFL) の役員を務めた[9]。クンツとクラブとの契約は2017年12月31日まで残されていたが、2016年4月に解除された[8]。
2016年8月23日、ホルスト・ルベッシュの後任としてU-21ドイツ代表の監督に就任した[10][11]。2017年6月にポーランドで開催されたUEFA U-21欧州選手権2017では決勝でU-21スペイン代表を下し、2009年大会以来2度目のタイトル獲得に導いた[12]。2021年、2020東京オリンピックにおけるドイツ代表チーム監督も務めた[13]。
2021年9月19日、トルコ代表の監督に就任したことが発表された[14]。
2023年9月19日、トルコ代表の監督を解任された[15]。
# | 開催日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 大会 |
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1 | 1993年12月18日 | オークランド、オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム | アメリカ合衆国 | 0-2 | 0-3 | 親善試合 |
2 | 1994年9月7日 | モスクワ、ルジニキ・スタジアム | ロシア | 0-1 | 0-1 | 親善試合 |
3 | 1996年6月5日 | マンハイム、カール=ベンツ・シュタディオン | リヒテンシュタイン | 2-0 | 9-1 | 親善試合 |
4 | 9-1 | |||||
5 | 1996年6月26日 | ロンドン、ウェンブリー・スタジアム | イングランド | 1-1 | 1-1 (6-7 p.) | UEFA EURO '96 |
6 | 1996年10月9日 | エレバン、ラズダン・スタジアム | アルメニア | 0-5 | 1-5 | 1998 FIFAワールドカップ・予選 |
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