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サラト・チャンドラ・ダス(英: Sarat Chandra Das、ベンガル語: শরৎচন্দ্র দাস、1849年 - 1917年)は、インドのチベット学者で、チベット語とチベット文化を研究した。1879年と1881年 - 1882年のチベット旅行によって知られる。
サラト・チャンドラ・ダス শরৎচন্দ্র দাস | |
---|---|
生誕 |
1849年 チッタゴン |
死没 | 1917年 |
国籍 | イギリス領インド帝国 |
民族 | ベンガル人 |
職業 | 探検家、学者 |
宗教 | ヒンドゥー教 |
東ベンガルのチッタゴンでヒンドゥー教徒の家庭に生まれ、当時カルカッタ大学の一部をなしていたプレジデンシー・カレッジで学んだ。1874年、ダージリンのブーティアボーディングスクールの校長に任命された。同学校のチベット語教師であったラマのウゲン・ギャツォは、ダスにタシルンポ寺で学習するための通行証を1878年に用意した。翌1879年6月、ダスはウゲン・ギャツォとともにダージリンからチベットへと最初の旅に出た。2人はチベットに6か月滞在し、大量のチベット語とサンスクリットの文書を持ってダージリンに帰った。この文書は後にダスの研究の基本資料として使われた。1880年にダスはダージリンで持ち帰った情報の吟味をして過ごした。1881年11月、ダスとウゲン・ギャツォはチベットを再訪し、ヤルルン渓谷を探検したのち、1883年1月にインドに戻った[1]。
一時期はイギリスのスパイとしてチベットを探検したり、チベット人・ロシア人・中国人に関する情報を集めるなどの仕事を行った。帰国した後にはチベット訪問の理由が露見し、交流のあった多くのチベット人が処罰された。後半生をダージリンで過ごしたダスは自宅を「ラサ・ヴィラ」と命名し、チャールズ・アルフレッド・ベルや河口慧海らの訪問を受けた。ケネス・ポール・ジョンソンによると、神智学協会の創設者であるヘレナ・P・ブラヴァツキーとヘンリー・スティール・オルコットは1882年にダスに会っている[2]。
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