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ウィリアム・ウッドヴィル・ロックヒル(William Woodville Rockhill, 1854年4月1日 - 1914年12月8日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官、東洋学者である。
1854年、ロックヒルはペンシルベニア州フィラデルフィアにおいて、トマス・キャドワレイダー・ロックヒル (Thomas Cadwalader Rockhill, 1820-1849) とドロシア・アン・ウッドヴィル (Dorothea Anne Woodville, 1823-1913) の第2子として誕生した[1]。ロックヒルはフランスのサン・シール陸軍士官学校に学び、このときにチベット語の学習を開始した[2]。卒業後は北アフリカでフランス外人部隊として働いた[2]。
1875年にアメリカ合衆国に帰国し、ニューメキシコ州の牧場で働いた[2]。1881年から再びヨーロッパに渡り、3年間にわたってチベット語・サンスクリット・中国語を研究した。1883年から北京にあるアメリカ合衆国公館に勤務した(ただし無給)[2]。このときロックヒルはラサを訪れる計画を立てた。その計画はかなわなかったが、中国西部・モンゴル・チベットを歴訪し、その結果1893年に王立地理学会の金メダルを受賞した。ロックヒルは探検の成果をスミソニアン博物館に寄贈した[3]。
チベット学者として、ロックヒルはチベット語版の『ウダーナヴァルガ』を翻訳した[4]。1884年、ロックヒルはチベット大蔵経をもとに『仏陀の生涯』を英語に翻訳して出版した[5]。
ロックヒルは1894年から1896年まで第三国務次官補を、1896年から1897年まで国務次官補を務めた[6]。そして1898年から1899年まではギリシャ、ルーマニア、およびセルビアにおいて合衆国特命全権公使を務めた[6]。このときロックヒルはギリシャのアテネを駐在地とした。
1900年、清で義和団の乱が発生した際、ロックヒルは合衆国の特派員として北京に赴いた。その後1905年から1909年までロックヒルは清で特命全権公使を務めた[6]。このときロックヒルが収集した希少な中国美術品は、合衆国議会図書館に収蔵されている。1908年に、亡命中のダライ・ラマ13世と会談した[2]。ロックヒルは1909年から1911年まで駐ロシア大使を[6]、1911年から1913年まで駐オスマン帝国大使を[6]務めた。
ロックヒルは1914年にハワイのホノルルで死去した。ロックヒルの遺体はコネチカット州リッチフィールドのイースト墓地に埋葬された[7]。
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