オジー・ギーエン

ベネズエラの野球選手、監督 (1964 - ) ウィキペディアから

オジー・ギーエン

オズワルド・ホセ・ギーエン・バリオスOswald "Ozzie" José Guillén Barrios, 1964年1月20日 - )は、ベネズエラ出身の元プロ野球選手内野手)、プロ野球監督

概要 基本情報, 国籍 ...
オジー・ギーエン
Ozzie Guillen
Thumb
シカゴ・ホワイトソックスでの監督時代
基本情報
国籍 ベネズエラ
アメリカ合衆国
二重国籍[1]
出身地 ベネズエラ
首都地区
ミランダ州ランデル市
生年月日 (1964-01-20) 1964年1月20日(61歳)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
150 lb =約68 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1980年 アマチュア・フリーエージェントとしてサンディエゴ・パドレスと契約
初出場 1985年4月9日
最終出場 2000年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
監督歴
  • シカゴ・ホワイトソックス (2004 - 2011)
  • マイアミ・マーリンズ (2012)
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経歴

現役時代は1985年から1997年までシカゴ・ホワイトソックス1998年ボルチモア・オリオールズ、1998年途中から1999年アトランタ・ブレーブス2000年タンパベイ・デビルレイズに所属し、遊撃手として活躍。1985年に MLB(メジャーリーグ)とスポーツ・イラストレイティッド選出の新人王を同時受賞。1990年ゴールドグラブ賞を受賞、1988年、1990年、1991年にオールスター出場。1990年に日米野球で来日もした。

現役引退後は2003年フロリダ・マーリンズの三塁コーチを務め、世界一を経験。翌2004年のシーズンよりジェリー・マニエルの後任としてシカゴ・ホワイトソックスの監督に就任。かつての地元の英雄の凱旋ということで、同シーズンの開幕試合ではコミスキー・パークにてスタンディング・オベーションによる歓迎を受ける。

2005年にはそれまでの長打に頼ったチームカラーを変え、シーズン中はスコット・ポドセドニック井口資仁らに犠打盗塁等のサインを出す細かい野球で臨み、ポストシーズンも勝ち進んでワールドシリーズを制した。なお、ベネズエラ人としてはメジャーリーグ史上初の監督である。

2006年にはオールスターアメリカンリーグ監督を務め、ロベルト・クレメンテを讃えるセレモニーでは、コミッショナーのバド・セリグがクレメンテの偉業を賞賛すると、ベンチで涙を拭っていた。

2007年は主力打者の故障や不振が相次ぎ、満足の行く成績を上げられなかった。「ラインナップを書いていると涙が出てくるぜ、このメンバーなら俺でも出られる」と嘆いた。

2010年のドラフトで、外野手である息子オズニーがホワイトソックスから22巡目(全体668番目)で指名された。

2011年シーズン終了後にシカゴ・ホワイトソックス監督を退任し、2012年シーズンからマイアミ・マーリンズの監督に就任することが発表された。2012年10月23日、チームの成績低迷の責任を取らされる形で解任された[2]

選手としての特徴

人物

ギーエンは失言・放言でも有名で、2005年の8月にニューヨーク・ヤンキースとの試合前に旧友と会った際、レポーターが取り囲む中旧友を『ホモ(homosexual)』、『幼児虐待者(child molester)』と呼び物議をかもした他、2006年には『ルーキーピッチャーのショーン・トレーシーは(テキサス・レンジャーズとの試合で)報復のデッドボールを投げなかったから、マイナーに送られた』とギーエンの選手の取り扱いを批判したシカゴ・サンタイムズの記者ジェイ・マリオッティに対し、やはりレポーターの囲む中『ホモ(fag)』、『俺のケツでもなめやがれ(kiss my f**king ass)』など放送禁止用語でこき下ろし、コミッショナーから厳重注意と罰金を受けている。

2011年4月27日の試合では球審に抗議を行い退場処分となった後、試合が行われている最中にTwitterで「不当な退場」と表現したり、球審を「荒っぽい男」などと侮辱する書き込みを行い、これがメジャーリーグで禁止されている試合中の外部への情報発信にあたるとして2試合の出場停止処分を受た[3]。この規定には2011年より導入されており、初の適用となった[4]

2012年TIME誌で、キューバフィデル・カストロ前議長を称賛するような発言をして、亡命キューバ人の多い地元からの反発を憂慮した球団により、4月11日から5試合出場停止処分が下された。

詳細情報

要約
視点

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
















































O
P
S
1985 CWS 1505134917113421911763374811211365.273.291.358.649
1986 159577547581371942170478412512115214.250.265.311.576
1987 1496045606415622721985125813822215210.279.303.354.657
1988 15660656658148167017839251310325324014.261.294.314.608
1989 1556265976315120811905436171131530488.253.270.318.588
1990 1605635166114421411765813171552681376.279.312.341.653
1991 1545555245214320331784921151371110387.273.284.340.624
1992 12434058400127101110051.200.214.300.514
1993 13448645744128234417150541361000416.280.292.374.666
1994 100390365461059511273954741420355.288.311.348.659
1995 12243341550103203113241674113102511.248.270.318.588
1996 150528499621312484183456512710002710.263.273.367.640
1997 14252749059120216416552531142210247.245.275.337.612
1998 BAL 1218162100010011010021.063.118.063.181
ATL 8329526435731511932214422401252.277.337.352.689
'98計 9531328037741511942215522501273.264.325.336.661
1999 9225523221561601752042531520176.241.284.323.607
2000 TB 6311410722264023612101060071.243.283.336.619
MLB:16年 19937133668677317642756928226161916910814160239257511114.264.287.338.625
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年度別監督成績

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年度球団地区年齢試合勝利敗戦勝率順位/チーム数備考プレーオフ勝敗
2004年CWSAL 中 401628379.5122 / 5 
2005年411629963.6111 / 5WS優勝11勝1敗
2006年421629072.5563 / 5 
2007年431627290.4444 / 5 
2008年441638974.5461 / 5ALDS敗退1勝3敗
2009年451627983.4883 / 5 
2010年461628874.5432 / 5 
2011年471597782.4843 / 5 
2012年MIANL 東 481626993.4265 / 5 
通算:9年 1456746710.51212勝4敗
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太字はプレイオフ進出(ワイルドカードを含む)。

表彰

記録

出典

関連項目

外部リンク

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