1907年チフリス銀行強盗事件
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1907年のチフリス銀行強盗事件(1907 Tiflis bank robbery)またはエリヴァン広場の強奪事件(Erivan Square expropriation[1])は、1907年6月26日に[a]、ロシア帝国のカフカス総督府下にあったチフリス県チフリス(現在のジョージア領トビリシ)で起こった武装強盗である。革命のための活動資金を必要としていたボリシェビキが、エリヴァン広場(現在の自由広場)を通って郵便局とロシア帝国の国立銀行の支店間を移動する現金輸送車を襲撃した。現金を運ぶ馬車の周囲は警官と軍人が固めていたが、ボリシェビキの爆弾と銃撃を受けて多数の死者がでた。当局の記録によると、死者は40人前後、負傷者がさらに50人前後いた。強盗たちは341,000ルーブリ(2017年時点の386万ドル前後に相当)を奪い、逃走した。
1870年代に撮影されたエリヴァン広場 | |
日付 | 1907年6月26日 (1907-06-26) |
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時刻 | 10時30分頃(推定) |
場所 | ロシア帝国、カフカス総督府、チフリス県チフリス、エリヴァン広場 |
座標 | 北緯41.6934度 東経44.8015度 / 41.6934; 44.8015 |
主催者 | |
関係者 |
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結果 | 341,000 ルーブリ (2017年の386万米ドルに相当)が強奪された |
死者 | 40人前後 |
負傷者 | 50人前後 |
強盗はレーニン、スターリン、リトヴィノフ、クラーシン、ボグダーノフといったボリシェビキの最上層部が指揮したとされている。スターリンの幼馴染で盟友であったテル=ペトロシアン(通称カモ)たちが実行犯となった。彼らの実力行使はロシア社会民主労働党(RSDLP)の第5回党大会で決議された禁止事項に明らかに反するものであり、党内ではボリシェビキに怒りの声が上がった(ボリシェビキはRSDLPの一派閥である)。そのためレーニンとスターリンはこの事件から距離をとろうとした。この事件や同じような強盗の余波でボリシェビキの指導部にも亀裂が生じ、レーニンはボグダーノフやクラーシンと袂を分かった。
ボリシェビキは結果として強盗に成功し大量の現金を獲得したにも拘らず、警察が高額紙幣の通し番号を把握していたため、奪った金の使い道はほとんどなかった。1908年1月にレーニンはヨーロッパ各地で複数の人間が同時に高額紙幣を換金するという計画を立てたが、この作戦も失敗して大量の逮捕者が出ただけでなく、強盗事件に彼らが関与していたことが世界中の知るところとなり、ヨーロッパの社会民主主義者からも批判を受けた。
カモは事件の直後にドイツで逮捕されたが、3年以上にわたって狂気を装うことで刑事裁判を逃れ、精神病棟から脱走した。しかし2年後に別の強盗事件を計画中に再び身柄を拘束された。1907年の強盗事件も含め過去の犯罪について死刑が宣告されたものの、後に終身刑に減刑され、さらに1917年の革命の影響で牢獄から解放された。事件の首謀者や実行犯のうち裁判にかけられたのは彼1人であった。カモが亡くなると、エリヴァン広場のそばにあるプーシキン広場に埋葬され記念碑も建立された。スターリンの時代にこの記念碑は取り壊され、カモの墓も別の場所に移動された。