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中華民国の省 ウィキペディアから
1911年(宣統3年)、辛亥革命が発生すると、滇軍は10月30日に木々、11月1日に清朝官吏を駆逐、11月3日に雲南大漢軍政府が成立、革命軍司令官の蔡鍔が軍政府都督に就任した。これより以前に10月27日に成立した張文光等による滇西都督府も存在したがまもなく廃されている。
1913年(民国2年)、『劃一令』により中華民国が省民政長官として民政長が設置され、下部に民政、財政などの司が設置された。1914年(民国3年)5月23日には民政長を巡按使と改称されている。同年12月25日、唐継尭による雲南独立が宣言されると、一時巡按使署は民政庁と改称され、都督府の管轄とされた時期があった。
1916年(民国5年)7月6日、巡按使は省長と改称、その下部に政務、財務等の庁が設置された。1927年(明国16年)3月9日、国民党中央政治会議は雲南省政務委員会を設置、当初は広州国民政府、後に南京国民政府に帰属した。
1949年(民国38年)12月19日、共産党勢力により雲南省の大部分が「解放」され、中華民国は実効支配権を喪失したが、ビルマ、ラオス国境地帯では雲南反共救国軍が引き続きゲリラ戦を行っていた。雲南反共救国軍は1951年(民国40年)5月に滄源、耿馬、瀾滄、双江の4県で大規模な攻勢に出るが、人民解放軍の反撃によって7月までにビルマやタイ北部に脱出した。その後、国連決議に伴って雲南反共救国軍の兵士たちは武装解除の上、台湾に退去することが決まり、1954年(民国43年)までに6,986人が台湾に退去した。しかし一部の兵士は現地に残留し、雲南人民反共志願軍を結成して、1960年(民国49年)までゲリラ戦を行った。
清代は迤東、迤西、迤南、臨開広の4道が設置されていたが、辛亥革命後は迤東道は廃止となり、迤西、迤南、臨開広の3道は清制がそのまま踏襲された。1914年(民国2年)2月25日、迤西、迤南、臨開広は滇西、滇南、臨開広道と改称され、新たに滇中道が旧迤東道地区に新設されている。
1914年(民国3年)6月24日、北京政府が発布した『劃一令』により各観察使は滇水道、蒙自道、普洱道、騰越道が設置された。1927年(民国16年)の北伐の結果、道制は廃止された。
中華人民共和国成立直前の管轄県は下記の1市113県15設治局。(50音順)
雲南省はイギリス植民地のインド及びビルマ、フランス植民地のインドシナと隣接する政治地勢により、国境防衛と外交折衝を現地で行う必要があり、1929年(民国18年)11月、第一(滇西)殖辺督弁署及び第二(滇南)殖辺督弁署が雲南省独自の判断で設置された。
殖辺督弁署設置の事実は省政府より内政部を経由し行政院に報告され、国民党中央政治会議は省と県の中間に位置し、殖産及び国境警備、辺境地域の交通、教育等を担当する行政機関として暫定的に設置することを認可、また緊急事態における行政指揮権の付与も認められ、1938年(民国27年)に廃止となっている。
雲南省における行政督察区制度は1940年(民国29年)5月、旧普思辺区管轄地域に第1行政督察区が設置されたのが初見である。1942年(民国31年)3月、全省を7区に再編し、1945年(民国34年)には13区に再編された。
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